スーラと言う画家、以前見た「グランド・ジャット島の日曜日の午後」もそうだったが、何か他の画家とは異質の物を感じる。何か異星人を思わせる普通とは違った感性・・・と言ったら良いだろうか。
ジョルジュ・スーラ 「サーカス」 1890年~91年 オルセー美術館(パリ)
スーラは91年、32歳で早世しており、その最後の未完の作品だと言う。色が薄いのでまだ点描が重ねられる予定だったのかもしれない。
しかし未完であっても画面の中の人々の表情に非常な違和感を感じて仕方がない。また他の画家たちの作品のように、神に人間が喰われる場面があまり冷酷には描かれていない事も、他とは違う気がする。喰う側の神が描かせた絵と言うよりも、喰われる人間側の立場に近い形で表現されているような気がする。
この画家は。単に色の発色を際立たせる為の点描技法を研究した画家と言うだけでなく、感情的に人間により近い同情的な感性で作画していたのかもしれない。ゴーギャンや手塚治虫に感じた物をこの画家の作品には感じる。むろんもっと研究して行かなければ本当の事は見えて来ないのだろうが。
画面下中央の、一番大きく描かれたこの人物、サーカス団の興行師か何かだろうか。左手にタバコ、右手にカーテンのような物を持っている。サーカスのテントの幕を開けて観客を楽しませる興行を開いているのを表しているのか。大きな口を開けて団員に指導をしているように見える。
絵の最下部には生贄の人間が隠れている。この絵でもこの興行師の顔、頭は人間の身体で組み立てられている。この人間の塊をぱっくりと呑み込む巨大蛇も隠れているはずだがあまりはっきりとはしない。
馬に片足で乗る曲芸師。デッサンが無茶苦茶で、長すぎる首、おかしな腰の形、長く輪を描くような形の腕、おかしな髪型等美術学校で勉強したとは思えない下手さである。
まくれ上がったスカートに人間の形らしきものが見て取れる。広げた両手の後ろに蛇神の頭(非常に見えにくいが)があり、そいつがスカートの人間を咥えている事を描いているらしい。
観客の一部。ボーっとテレビを見ている人の様な感じだ。この当時はラジオもテレビも無く、サーカス等の見世物小屋が娯楽になっていたのだろう。
左は馬に乗る女曲芸師のスカートの中をガン見する男。右も同じくニヤつく男。手が股間に伸びているのはどうしてか。
左、まるでアニメのワンシーンのような作画の婦人二人。右、まるで猿のような顔の男女。手前の男の口は(髭かもしれないが)は真っ赤であり、何かに危害を加えられているかのよう。
何だろう、この気の抜けたいい加減な作画は。服装、髪型、髭、実際にこんな形がある訳が無い。ただ皆手元に何かを持っているような微妙な表現になっている。小さな人間を捕まえて持っている?
下手な絵だ。真ん中手前の夫人など、顔形さえ捉えられない。その後ろの男は身体が透けて後ろの座席が見えている。
鞭を持って馬を操る男か。その後ろで宙返りをするピエロたち。
鞭の男の背後に並んでいる男たちは巨大蛇の口に生えた歯を表しているらしい。宙返りの男は上半身と下半身が別々の人間で出来ている。頭も別々で、それぞれが背後の巨大蛇(これも見えにくいが)に喰われているらしい。
鞭を持つ男の顔。何て狂気じみた顔なんだろう。髭は真っ赤なのでひょっとするとこれは裂けた口なのかもしれない。
白馬だがコントラストを強めると、馬の筋肉とは別の人間だか大蛇だか分からないがそんな形が見え出す。馬の口が赤く、何かを咥えているようにも見える。
全体図。見えにくいが、かろうじてイラストのような巨大蛇の頭が見えた。やはり上から降りて来て人間たちを襲う姿を見せている。手前の興行師はこの神の食事(生贄の儀式)の光景を鑑賞者に幕を開けて見せている。
後のテレビ放送の役割をこのサーカスの興行師は担っているのだろう。鑑賞者は神の生贄の儀式をそれとは知らずにボーっと見せられている。洗脳装置だからいつの間にか神には逆らわずに素直に従って命を捧げるようになってしまう。
何年か前に自分で描いたイラスト。NHKは人間を食い物にしている。特に子供を。生まれたれた時からだからなかなか気が付かない。
テレビは電波を通じて、好もしいアイドルを使って悪魔のサインを送り続けている。
テレビを見続けている人は自分で考える事をせず、テレビの言う事が自分の考えだと思うようになる。自らが持って生まれた頭脳を眠らされている。
古くは歌謡・歌舞演劇・見世物小屋にサーカス・ラジオに映画・テレビと媒体は変化しているがいずれも洗脳装置である事は同じであろう。絵画・彫刻・音楽においても人を楽しませる要素を持つ物にはそれが付随している。人間家畜を家畜のままにして置くには絶えず洗脳し続けなければならない。目覚めさせてはならない。
スーラの絵は狂気じみているが、そんなことを気付かせようとしているように思える。