名画の隠し絵

美術館にある名画には隠し絵がある。それは巨大な蛇の形をしており、人間を喰う姿が絵になっている。

コロー 「ナポリの浜の思い出」 森の中の神々

膝関節の痛みがなかなか無くならない。鎮痛剤でごまかしながら仕事をしている。そろそろ人生の終盤に向けて準備をする時期かもしれない。

しかしこのブログで得られた知識では、人生は家畜としてのそれであり、一つも希望が無い。この世を支配する悪魔に問うても悪魔的な答えしか得られないのだろう。より上位の存在に問わなければ良い答えは無い。

まずは悪魔の存在を人々に知らしめれば、その存在の上が見えて来ることを期待する。

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー 「ナポリの浜の思い出」 1870~72年 国立西洋美術館

フランスの画家コローと言えば、風景画と婦人の肖像画が思い浮かぶが、これは風景画。何度もイタリア旅行に出かけたが、彼の晩年70歳代の頃の作品である。

船の見える浜を遠景にして、二人の女と一人の赤ん坊が手を繋いで森の小道を駆け上がってくる。女の一人は片手にタンバリンを持ち、踊るようにしていて楽しそうだ。

この三人とコローの関係、女同士で手をつなぐ二人の関係は分からない。たまたま見かけた姉妹だろうか。

赤ん坊を抱いた女は口づけをしているのだろうか。隣の女はタンバリンを振り上げていながらスカートが広がるほどに踊っているのだが、手は繋いだままだ。スカートの真ん中に何かがあるらしいが、足なのかどうか分からない。赤ん坊を抱いた女もどういう服装なのか不明確だ。ともかく明るい浜を背景にして三人が楽しそうに歩いている様子が描かれている。

三人の足元は赤っぽく、落ち葉が厚く重なっているらしいのだが、よくその辺りを見てみると・・・・画質調整しながら長い時間見つめていると、こんな風に見えて来た。短時間見ただけでは見えないだろう。全く別物に見える人もいるだろう。一つの絵で何通りにも見えるように形が重ねられていて分かりにくい。僕にはこう見えた。

左端に逆さに転がった赤ん坊、真ん中に仰向けに横たわった女、右側にうつ伏せになった女、である。その他辺り一面に骸骨等が転がっている。

拡大して、丹念に見て行くと、こんな形が見えて来る。見ようとしなければ見えないだろう。まさかこんな隠し絵があるはずが無いと思ってじっくり見ようとしない人には見えないだろう。単なる落ち葉の描写の陰影にしか見えないのだろう。

全体図。

画面下端には楽し気に歩いている三人の変わり果てた姿が転がっている。他にも人の肉が積み重ねられている。ここは「神」の食事処。生贄の現場だ。三人の人間の未来を表している。もしくは人間の産まれた意味、生きる意味を説明している。

縦長の画面には上から降りて来る「神」の姿が隠れている。大きな「神」だけでなく、小さな「神」も同時に隠れている。まるで森の中にいるヤオロズの「神」だ。森羅万象全ての生物に「神」が宿っている事を具現化している。

 

昔僕は、自分が歳を取ったら宗教とかに帰依して極楽行きを願いながら、念仏を唱えながら生きるのかと思っていた。しかし絵画の研究をして行く中で恐ろしい現実を発見してしまい戸惑っている。人間の存在がこんなにも残酷な運命の中にある事に驚いている。

何も知らず、何にも気付かずに、気楽に生きて死ねればそれはそれで良いとも思える。

自分が気付いてしまった事を他人に伝える事に何らかの意義があるのか。人間は「神」の食糧として創られ、そのために家畜として存在し、全員ではないにしても肉と血を「神」に捧げる為に死ぬのだ・・・・。こんな事を言われて不愉快になる人の方が多いに決まっている。拒絶されるに決まっている。

自分の心の中だけにしまっておいた方が良いのか。