生贄の儀式、生贄の祭典、神社のお祭り、これらは全て始まりは同じ物だったかもしれない。
川の龍神を鎮めるために村から生贄を選出し祭壇に供えると言った龍神伝説も起源は同じなのだろう。
ポール・ゴーギャン 「ファイヤーダンス」 1891年 イスラエル美術館
タヒチでの火祭り。真ん中に独特な形の樹があるが、どう見てもこれは上から降りて来た「蛇神」だろう。
「神」に喰わせるために、白い装束の生贄たちが画面右奥にいる。その向こうに巨大な爬虫類型の「神」が生贄を喰い始めている。この部分図では右側の人が後ろの黒い「神」に喰い付かれているし、左側にも裸にされて咥えられている人がいる。
決め事があるようだ。生贄となる者は白装束である事、生贄となる者は石の祭壇の上にいる事、抵抗せずに上方から来る「神」にその身をゆだねる事。
生贄の順番を待っている男女二組。身を寄せ合い、素直に己の運命を受け入れる。巨大な、異次元の力・優れた知能を持った「神」に戦いを挑んでも敵うはずが無い。アリが像に向かうようなもので戦う前から勝敗が見えている。
そもそも人間はこの為に「神」の生贄になるために創られたのだ。
ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」 1897~98年 ボストン美術館
人物たちは大きな石の上に立ち、座り、寝ているのが分かるだろうか。これも生贄の祭壇の絵である。
画面右端の赤ん坊。上半身と下半身が変に伸びている。切れて繋がってないのではないか。切断部分は白い布を被せて隠している。首にもおかしな横線が見える。この子の身体の下にあるのは影ではなく流れた血か。
横山大観 「龍興而到雲」 1937年(昭和12年) 島根県足立美術館
龍が川などから波を立てて天に向かって登り、雲に到達する。縁起の良い登り龍の絵だが、画面下部の岩の表現に注目。
赤ん坊を抱いた女が仰向けにになっているのが見える。腕を胸の前で交差し、赤ん坊をしっかり抱きしめている。赤ん坊は右手を上に挙げ何かを叫んでいるようだ。女は白い装束を着ているかもしれない。
上方に、画面いっぱいに描かれた「龍神」(蛇神)の頭。こいつが母子を喰いに来たらしい。
ポール・ゴーギャン 「死霊が見ている」 1892年 オルブライト=ノックス美術館(アメリカ・ニューヨーク州)
白いシーツを敷いたベッドの上に横たわる女。画題にある「死霊」は、柱の陰の人物と思わせておいて違う。画面いっぱいに描かれたこの獅子舞の獅子のような化け物が死をもたらす者。生贄の女を喰いに来た「蛇神」だ。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「荒野の聖ヒエロニムス」 1480年頃 ヴァチカン宮殿
未完成作品だとは思えない。「東方三博士の礼拝」と同じように、血塗られた凄惨な世界を表現している。
このライオンは人間の身体を数体組み合わせたもの。その他地面にも人間の身体のパーツが転がっている。血が流れて真っ赤だ。
聖人ヒエロニムスは己の心臓を右手で取り出し、木桶の上にかざして血を絞っている。アステカの神殿での生贄儀式は、人の心臓を他者が取り出して「神」に捧げるらしい。アニメの「進撃の巨人」でも主人公たちが勢ぞろいして「心臓を捧げよ!」とか言う。彼は左足も切って地面に転がしてある。
木桶に溜まった血を、「神」がすすりに来るのだろう。この絵では巨大な「蛇神」の頭が、ライオンの尻尾の所にいる血だらけの生贄人間を喰っている。
ポール・ゴーギャン 「死霊は見ている」 1893~94年 埼玉県立近代美術館
ベッドの上で寝ている女ではない。生贄の石の祭壇上で白い布をあてがわれ、豚の丸焼きのごとく丸くなり喰われるのを待つ女である。
所詮人間はこんな弱い存在である。
ただそんな事実を知り、他に知らしめることが出来ればその事が奴らの衰退の始まりに繋がるかもしれない。