前回の作品の追加・補足説明。
まずは元絵。高画素の元絵を大きいまま掲げる。コントラストを付け、暗い部分を明るくしてある。
ピエール・オーギュスト・ルノワール 「雨傘」 1881~86年 ロンドン・ナショナルギャラリー
こうして見ると、左の若い女性の服の雨に濡れた様な感じと、右の傘の下の母親の紺の服のふわっとした感じの対比がよく分かる。
追加説明したかったのが画面右の姉娘の頭部分。帽子に見える所は明らかに大蛇である。大蛇がとぐろを巻き気味にして少女の顔の上に乗っている。青や赤色の人間を咥えている。
その少女の顔自体も小さな人間で出来ている。
この少女の顔に限らず、名画の中の隠し絵にある人間の姿には特徴がある。
皆裸であり、大抵後ろ姿であり尻を向けている。胴が短い。時に生殖行為の最中である。尻から子供を産んでいたりする。
これらは蛇型生命体から見た人間の姿なのだろう。人間が人間を絵にする時、子供の絵のように真正面の立った姿を描くだろう。それを後ろ姿で表すと言うのは、男女の区別の為の乳房・男性器を見せないで済むからなのではないか。人間が家畜の肉を食べる時オスの肉かメスの肉かにこだわらないのと同様に、人間を家畜の肉と見ている者が描いている証拠ではないか。
胴が異様に短く表されるのは、胴が長い蛇型生命体から見ているからではないか。蛇から見れば、人間とは異様に短く、おかしな手足と言う突起物を出した生き物に映るのだろう。
性行為をしながら同時に子供を産んでいたりするのは、人間よりもはるかに寿命の長い生物から見ているからではないか。例えば何百年と生きる生命体から見れば、人間が性行為をし出産するのも一瞬の間だろう。
一方隠し絵の中の「蛇神」の表現はこんな感じである事が多い。画面上方からぶらりと降りて来てその頭の辺りだけを見せている。膨らんだ頭と二つの目だけで形を表している。そしてその口には大抵小さな人間が咥えられている。
普通人間が蛇を絵にする時、縄状のにょろにょろした感じで表すだろう。それは人間が蛇を上からそんな姿で見る事が多いからだろう。蛇自身は自らを自覚する時、己の目と口・頭辺りの自覚が中心なのだろう。だから名画の中の隠し絵の「蛇」は人間が描き表した物では無く、蛇型生命体自身が表現したものと思える。
数年前、このブログで名画の中に「蛇」を見つけ始めた時、「蛇」しか見えず、絵の隠し絵として「蛇」が「蛇」を互いに咥え合って連結して絵の人物なりを構成していると思っていた。「蛇」が集まって集合写真を撮るようにして絵になっていると思っていた。しかししばらくしてからその「蛇」の口先に小さな人間が咥えられている事を知った。「蛇」が繋がっているのではなく、人間を喰う「蛇」が連続して表現されているのである。名画の中で「蛇型生命体」が人間を喰う事があらゆる箇所で表現されていた。大きく、小さく表現され、また重なり合って複雑化している所もある。見方を変えようとも蛇の人喰いが発見されるように出来ている。
絵の中に「蛇」っぽい物が見える人はいるかもしれない。しかし僕にはより鮮明に「蛇」が見え、それが人を喰っている姿が隠れているのが見える。
見えるようになってしまった。見えない方が幸せだったかもしれない。
ただ見えてしまったからにはとことん追求し、生命の謎の解明に尽くしてみたい。