名画の隠し絵

美術館にある名画には隠し絵がある。それは巨大な蛇の形をしており、人間を喰う姿が絵になっている。

ゴーギャン 「死霊は見ている」 神の食事処 生贄の祭壇

神への生贄には決まった形式があるようだ。聖書の「イサクの犠牲」のように祭壇を築いて祈るように、いわば儀式的に決まりきった形でそれが行われる事が多かったようだ。人類誕生から聖書時代以前の長い期間、それは石の祭壇で行われるのが普通だったようだ。それが名画の中、特にゴーギャンの絵の中によくうかがえる。

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ポール・ゴーギャン 「死霊は見ている」 1893~94年 埼玉県立近代美術館

タヒチでは暗い中で眠っていると「死霊」が迎えに来ると信じられており、女たちは暗闇では眠らないのだとか。この絵でも右上に黒い「死霊」らしき影が部屋の中に入って来ている。女は布団の中で恐怖に身体を丸めて「死霊」の方を見ないように手で顔を覆っている。

ただ僕にはこれが皿の上に乗った食材としての人間にしか見えない。豚の丸焼きの様だ。

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イラスト化しながら細かく見て行くと、画面全体に巨大な爬虫類が大口を開けて女をベッドごと丸呑みにしようとしているのが見える。女は女単体ではなく、石の祭壇の上に置かれた人間の複数体の組み合わさった物である。所々小さめの蛇に巻き付かれている。石の祭壇上に蛇神の為の人間の肉を捧げている。

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「死霊は見ている」 1892年 オルブライト=ノックス美術館

同じ画題で何枚もの作品が描かれている。この絵ではよりはっきりと生贄の祭壇が見えるだろう。青いベッドがそのまま石の台になっている。女の下の白いシーツには小さな人間たちがたくさんいて、女が人間たちを押さえ付けている図になっている。

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「未開の物語」 1902年 フォルクヴァンク美術館

ゴーギャン54歳の死の前年に描かれた作品。二人の男女が石の祭壇の上に座って死を待っているのか。左上の男が「死霊」にも見える。画面いっぱいに描かれた巨大な蛇の中に全ての人物が取り込まれる。

男女が手に小さな人間を持っている。石の台上に小さな人間の肉片が散らばっている? 「死霊」の男が小さな人間を口に入れている。この事からこの三人は蛇神に人間を捧げている協力者でもある。

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「悪魔の言葉」 1892年 ワシントン国立美術館

混沌とした沼からイヴが生まれ出る。女(?)の誕生には背後の大蛇が関係している。蛇が精子を放出させている。

・・・・とも見えるこの絵だが、同時に「死霊」に導かれ、石の祭壇の上で生贄となる人間をも表しているとも見える。

人間はその誕生から死まで、悪魔(背後にいる蛇)に支配されている。

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「ブリターニュの入浴者」 1887年 アルゼンチン国立美術館

川辺の岩棚に裸の人間が立っている。その足元、手元には別の人間の肉体らしきものが見えている。画面いっぱいに描かれた巨大蛇の顔が人間の肉を喰いに来ているのが見える。

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「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」1897~98年 ボストン美術館

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ゴーギャン最大のこの作品にも生贄の祭壇が描き込まれている。右下の灰色部分と、左下の茶色部分である。右下には生まれたばかりの赤ん坊、左下には老いて死を待つばかりの老婆が描かれている。上空には巨大な蛇神が乱舞している。人間の生から死までをこの神(悪魔)たちによってコントロールされている。中央の青年はマンゴーの実を収穫しているのではなく、小さな人間を上空の神に捧げているのであり、人間は喰われるべき存在である事を示唆している。或いは青年が神に己が心臓を捧げていると見ても良いかもしれない。意味は変わらない。家畜として働き、神に盲目的に従うのが良いと言っている。

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右下の赤ん坊。眠っていると言うよりも、すでに死んでいるのではないか。もし死んでいるのならばこの世の苦しさを味わう事が無いので幸いかもしれない。別のもっと良い世界に行った方がよい。

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左端の老婆は「死」を恐れているのか。未知の世界に行く事は誰でも恐怖である。「我々はどこに行くのか。」誰も教えてくれない。自分で考え、その時に備えるしかない。それは突然やってくるかもしれないし、なかなか来ないかもしれない。苦しいかもしれないし、そうでもないかもしれない。意外とあっさりとした移行かもしれない。必要以上に恐れる事は無い。

我々は生贄の祭壇に備えられた供物のようなものではないか。名画の中に見られる生贄の食事風景ほどではなくとも、労働し税金を納め家族を作りそれを守り、身を粉にして働かなくてはならないのは血と肉を提供するのとあまり変わらない。この絵のような生贄の現場を一生知らずに生を終えても、労働用、繁殖用の別の役割が与えられているだけである。

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奈良県明日香村 石舞台古墳 

「古墳」と言われているが、これは生贄の石の祭壇ではないのか。これに土をかぶせて「円墳」だとか「前方後円墳」だとか言っているが、これらは神が降りて来て食事をする為のテーブルではないのか。

「古墳」にしても「神社」にしても元は同じ「神の食事処」だと思う。