車で仕事場に行く途中考える・・・死んだらこの目に見える世界でなく、どんな世界に行くんだろうな。自分の肉体も無くなり、意識だけが存在する別の世界か。人間関係で多少の不愉快なことがあっても、身体に多少の不調があってもそれは些細な事。別世界に行く事に比べたらなんと言う事もない。どんなに辛い事があってもそれはノーカウント。この世が地獄であっても無くても死んでしまえば関係ない。
エドガー・ドガ 「風呂後の朝食」 1895~98年 バイエラー財団(スイス)
何回目かの見直し。
明るくしてみる。
以前見た時も、この絵に描かれた凄惨な場面に驚かされた。
風呂から出る女が、画面左や下部に描かれた人間たちを捕まえて、背後の巨大な爬虫類に与えている様子が描かれている。彼女自身も喰われている。
また画面右側のカーテンは、(ホルマリン漬けにされた?)人間の女が吊るされている様子である。
この絵をもう一度見てみたい。
真ん中は、椅子の上にタオルが掛けられているようにも見えるが、四つん這いの踊り子が尻をこちらに向けているようにも見える。足や手は損傷しているのか。
その左側にも小さな人間が積み重ねられている。人間にも様々な大きさがあるようだ。
画面右側だけを切り取って、縦に縮め、少し左に回転させるとこんなになる。そこには黄色っぽい人間の女が二人ほど立ったまま吊るされており、股の間から子供を産み落としているようにも見える。風呂桶に中には真っ黒な人間の頭が浮かんでおり、床にも人間の手足や頭が転がっている。皆血だらけである。(この辺は別の形に見える人もいるかもしれない。右側に女の乳房と腹が見え、出産しているように見えるのだが・・・。)
メイドさんが朝食のコーヒーやらパンやらをトレーにのせて持っているのか。しかしこのメイドさん、「風呂の後」95年(フィリップス・コレクション)のメイドと同じで、上から降りて来た爬虫類に頭をぱっくりと喰われている。風呂から出た女の頭も左から這い上がって来た大蛇に喰われている。女の頭は既に無い。
全体図。風呂から出た女の右手・右足は無い。左手・左足は共にその先っぽが無くなっている。欠損した身体のパーツは風呂桶の中や地面にある。
女が左手で押さえているのは、多分その辺で狩って来た人間ども。女は巨人族。
画面右側の吊るされた人間は保存食か。フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」の中で右側のカーテンが同様の表現を取っていた。新鮮な人肉も保存肉も共に食卓テーブル(生贄の祭壇)に並べられる。
彼らにとって人間は「食べ物」なのだろう。人間を絵にする時、どうしてもすぐに食べられる状態の、食卓に並べられた状態で描くのが自然なのだろう。あたかも人間が「豚」を見るごとくに・・・。
家畜の「豚」は死の直前まで何も知らされない。