ジャン・フランソワ・ミレー 「死と木こり」 1858年~59年 ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館(デンマーク・コペンハーゲン)
木こりに死の時がやって来た。薪を集めて来た帰り道、死神が待っていた。例の長く大きな草刈り鎌を担ぎ、運命の砂時計を持っている。奴は細く長い手を木こりの肩にかけ、連れ去ろうとする。木こりは現実を受け入れられずに抵抗する。杖を放り出し、薪に抱き付くようにして死神から逃れようと座り込む。
死の時期は誰にも分からない。自分に死の時期が来た事を誰もが突然知る事になる。がんの余命告知を受けてある程度覚悟したつもりの人であっても、いざその時になるとじたばたと抵抗するかもしれない。あの世があるから、自分の魂がそこへ移るだけだと頭では考えても未経験の世界に飛び込むのは不安と恐怖が付きまとう。やり残した事も多い。
木こりのそんな心境をミレーのこの絵は表している。骨と皮の身体の死神が持つ鎌が木こりの頭の上に描かれている。砂時計を左手に持つ事で死神の吐く言葉さえも聞こえてくる。・・・・「もう時間だ。ついてこい。」 木こりの足は反対方向を向き、異様に長い左手も薪に懸命にしがみつく様子を表現して余りある。・・・「まだ死にたくない。」
おかしな点がいくらかある。木こりの顔、目・鼻・口が不明確である。鼻の先にある白い物は何か。黒い帽子をかぶっている? 長い左手の先の手は形が変だ。右手の下の薪が骨の様だ。
木こりの心象を表すのにここまで変形させるは何の意味があるのか分からない。作者は全体図で見せた物とは全く別の事を隠し込んでいるに違いない。
薪の向こうに飛び出した人の足先にも見える物。これが何だか分からない。
木こりのズボンの皺の形、おかしな靴の形、薪の中の微妙な陰影の中に隠された物があるようだ。木こりの腰の後ろの影もどこかおかしい。
部分図にしてトレースしながら詳細に見てみた。描きながら見方を変えて何度も描き直し、見えて来たものがある。この木こりの身体には大蛇が巻き付いている・・・と言うか手足は全く大蛇そのものであり、大蛇だけで人の形を作っている。顔と手先・足先は大蛇に咥えられた小さな人間である。所々別の人間の身体が見て取れるがそれは大蛇に呑まれた人間が透けて見えているのだろう。
薪も大蛇とそれに咥えられた小さな人間が作っている。小枝は一つ一つが人間であるらしい。
左は翼の付いた運命の砂時計を持つ左手。人の形、蛇の形で出来上がっていると見える。
右は草刈鎌を持つ死神の背中。変に肩幅が広い。ここだけ肉付きが良い。草刈鎌の刃はなまくらである。鋭利な部分はどこにも無い。僕は鎌をしょっちゅう砥石で研いでいるが、こんな鎌では草一本も刈れるとは思えない。
死神の下半身も木こりと同じように蛇で出来ているように見える。
また地面や後ろの岩も大蛇の顔やそれに喰われる人間が隠れているようだ。
死神の上半身は大きな蛇の頭で、尻の辺りの人間を咥えている。
後ろの岩の中にある隠れた何かを探りながらトレースしているのだが、まだよく分からない。その形が何通りにも重なっていて視点を色々と変えながら手を動かしながら探る。
この絵での隠し絵で見えた物をイラスト化した。
木こりが抱き付いているのは薪ではなく、生贄の人間である。蛇の化身の木こりが生贄を押さえ付けている。右側の巨大な蛇神がそれを喰おうとしている。木こりは神に生贄を捧げる存在である。
死神は足の向こうに生贄を確保している。上から降りて来た巨大な蛇がそれに喰い付いている。
名画の中の登場人物は大抵このように、神に生贄を捧げる補助をしている。そしてその人物の身体は一見した物とは全く別の、蛇で組み立てられた架空の創造物である。「死神から逃れようとする人」と言う、多くの人にとって興味深いテーマで惹きつけておいて、実際隠し絵では「人間は巨大蛇に喰われる存在」である事を表している。
宗教・芸術等において、9割方真実に近い事を表現して人を惹きつけておいて残りの1割には残酷な真実(人間にとって)を隠し持っている。
彼らも有機生命体である以上有機物を摂取するしか生きる手段が無いのだからある程度やむを得ないのかもしれない。しかし人間にとっては知りたくない事実だから絶対に知られないようにしておきたい。もし知られてもあり得ない事と鼻で笑うような、信じさせない風潮を作っておかなければいけない。悪魔・鬼・妖怪・幽霊・龍・ドラゴンその他色々な架空の存在を創って目くらまししておかなければいけない。
人間は馬鹿なまま、架空の物を信じさせて、仮想現実を生きさせておいて、秘密裏に少しずつ喰っていくのが頭脳的なやり方である。
この絵の死神が持つ草刈鎌の刃の先端が、背後の巨大蛇の左目を直撃しているのは面白い。僕のように隠し絵の存在に気付く人間が出るほど真実を隠さないと言うのも面白い。奴らは人間を騙す悪魔であり、同時に程度の低い神である。