名画の隠し絵

美術館にある名画には隠し絵がある。それは巨大な蛇の形をしており、人間を喰う姿が絵になっている。

ゴヤ 「マドリード 1805年5月3日」 地上で何が起ころうと「神」にとっては大した事ではない

ゴヤの作品と言えば、「裸のマハ」・「巨人」・「我が子を喰らうサトゥルヌス」その他の宮廷人の肖像画・黒い絵等、多岐にわたっている。そんな中からWikipediaで大きく扱われているこの絵を調べてみた。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「マドリード 1808年5月3日」 1841年 プラド美術館

ゴヤ69歳の時の作品である。スペイン独立戦争時、フランス軍によって市民が逆殺された事件に憤慨して描かれたと言う。小山を背にして市民が撃ち殺される様子が描かれている。遠くに宮殿が見える。

一番目立つこの男は両手を上に挙げて無実を訴えるかのようだが、その手の平にイエス・キリストのような聖痕が見える。殉教者の証らしい。

銃を向けられた他の人々は、驚きと恐怖の表情を浮かべている。

皆唇が白いのは血の気が失せているからだろうが、白い物を口に挟んでいるようにも見える。

兵の銃の向こう側で事態を見る人々。罪を着せられなかった市民か。目を覆い、口に手を当てて恐怖を表している。5月初めの夜はスペインでも寒いのだろうか。何だか寒そうである。

ただよく見るとこんな風にも見える。

小さな人間を口に入れて喰っている巨人族たち。左端の人など、口の周りを血で汚しながら喰っている。手前の二人も口から肉を長く垂らして喰っている。

フランス兵は誰一人として市民の方を見ていない。罪の意識があり、命令だから仕方なく銃殺をしている感じが出ている。

官給品の制服や背中に背負った毛布が、一人一人違う色なのはどうしてだろう。特に白い毛布などこの当時あったのか。行軍中でもないのに、完全武装なのはなぜか。

顔が皆おかしな表現で形が取れてない。ゴヤはこんなにデッサン力が無かったのか。それとも画面全体の為にわざと顔をこんな形に変形させたのか。主題を強調する為にここはあえて下手に描いたのか。

兵隊の背負っている毛布は実は手足の千切れた人間の胴体ではないか。もしくは切られて無くとも手足を束ねられて縄で縛られた裸の人間か。この荷物の下を見ると、赤黒い血のシミが見えるのでやはり切られているのか。

行燈の後ろにいる男は、火を灯しているのではなく、大きな黒い蛇に丸呑みされている。

兵士の足元には人間が無数に横たわっている。ここは生贄の祭壇であるらしい。

全体図。少なくとも三匹の巨大な爬虫類が人間を喰いに来ている。宮殿の方から這って来て兵隊を全て丸呑みしている奴と、それをさらに大きく呑み込もうと右上の空から来ている奴、そして左方から地を這って来て横顔を見せている奴。こいつは口を開けて虐殺される市民を喰っている。人を殺す人、殺される人、それら人間の営み全ては最終的に「神」と呼ばれるこの巨大な爬虫類たちに喰われる事で終わる。人間たちはそれに気が付かないまま生まれて生きて死ぬ。

 

ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」

この作品は何度も調べている。ゴーギャンの代表的作品であり、主題がこのブログの主旨と一致しているからだ。139.1cm×374.6cmの大作である。

ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」 1897~98年 ボストン美術館

タヒチの人々の死生感、「神」への対処の仕方が表れている。

画面は手前で三つの群像に分かれている。右端は人の出生。若い女性と赤ん坊が描かれる。

真ん中は青年が樹から実を収穫して働いている。左側にその実を食べる子供。盛んに食って働く青年期を表している。

左端には老人。「死」を恐れるかのように顔を手で覆っている。アヒルは「死」の象徴か。隣の息子のような青年に慰められているのか。

もう一度右端に戻って赤ん坊を見る。この子は石の祭壇の上に放置されている。若い女たちが母親であるなら、どうして布で包んで抱いてやるなり出来ないのだろうか。

この子はまるで死体のようだ。上半身・下半身がうまく繋がらないし、首、右手、左足はどうやら胴体に繋がってないようだ。身体の下に見える影は血だまりのようだ。

石の祭壇、または大きな蛇の頭に乗っているように描かれている。

真ん中の青年。マンゴーだろうか、樹の枝も無いのに(左右ににオレンジ色の不思議な葉が見えるが)、ハサミも持たずに収穫している。いや本当に収穫だろうか。

青年の胸の下、手の平、足の甲に聖痕があるように見えて仕方がない。

ポール・ゴーギャン 「黄色いキリスト」 1889年 オルブライト=ノックス美術館(ニューヨーク)

8年ほど前に描いたこの絵のキリストに色遣いや体形がよく似ている。

真ん中の青年はイエス・キリストであり、天の「神」に捧げものをしているのではないか。

座って木の実を食べる子供と、変な形の猫。猫の向こうに見える肌色の塊は何か。所々切断された人体のパーツではないか。切られた断面が赤い。子供が口にしているのもひょっとして小さな人間か。

真ん中の青年が捧げる赤肌色の丸い物はやはり人間? 

左端にいる老婆(だと思うが)。顔の左右や首の辺りを損傷しているのか。赤黒い血が溜まっている。これは単に「死」を恐れて顔を覆っているのではなく、実際に傷つけられているのではないか。何者かによって傷つけれらている真っ最中なのかもしれない。尻の下にある影は血だまりか。

画面左側後ろの「神」の像。右に巫女のような女が直立しているが、左側にある黄色い物は何だろう。暗い穴に吸い込まれる人間にも見えるが、逆に穴から出てくる人間にも見える。

「神」の像は良く観ると明らかに大蛇が形作っている。大蛇がとぐろを巻きつつ、蛇腹を見せながら像の頭の後ろに回って大きく口を開けている。

この左側にも別の大蛇がおり、鎌首をもたげている。そいつの腹に先ほどの穴から出る人間がいる。すなわち「神」は大蛇であり、その大蛇の身体から人間が生まれ出たとでも言っているらしい。

真ん中の青年の右後ろにいるこの二人は何だろう。収穫の手伝いをするわけでもなく、女同士で肩を寄せ合って歩いているだけ。

二人の口の周辺には小さい人間が見える。食事中か。さらに背後にこの二人を呑み込もうとする巨大な爬虫類が見える。人間を巨人族が喰い、それをさらに大きな爬虫類が喰う。この世の摂理を説明しているのか。

全体図。ごく大雑把に見て、画面の中に三匹の巨大な爬虫類型「神」がいる。

普通形を目で追い続けても見えない。こんな生物がいるはずが無いから、心を無にして素直な気持ちでなければ見えて来ない。目を細めて大きく捉える。他の物、木の幹の線・風景の色の変化等を自然に繋いでその形を見る。異次元の生命体らしいから簡単には見えない。特に生まれてこの方テレビや何かに洗脳され続けてきた人には見えない。

また同時にこんな隠しが施されているのが見えて来る。人間家畜の繁殖を促す隠し絵である。山の青い部分の中に人間の男女の性行為している所が表されている。男が上で青、女が下で赤、身体が透けているので重なって見える。男の尻からも女の尻からも子供が産まれ出ているようだ。

下の段にももう一組、性行為中の男女がいる。

また山の中には頭を右に向けた男女交合図も併せて表現されている。

 

我々はどこから来たのか・・・・宇宙からやって来た爬虫類型生命体によって地球上に生まれた。

 

我々は何者か・・・・その爬虫類型生命体が生きるために、地球に元々いた生物と自らの遺伝子を混ぜ合わせて、食糧として創った。

 

我々はどこに行くのか・・・・爬虫類型生命体を人間には「神」と呼ばせ、「神」に従う事(素直に喰われる事)のみを目的とする。

 

セザンヌ 「赤いチョッキの少年」 手が長く見えるのはそれが切れているから

セザンヌの絵の解説を読むと、多角的な視点から見た形を一つの絵に同時に描き込まれているとか、キュービズムの父として物を丸・三角・四角とかの単純な形で捉えているとか、分かった様な分からない様な事が書かれている。僕はそんな風には思わない。

セザンヌは単純に絵が下手で、デッサンがまるで出来てない。だから空間がゆがんだような絵しか描けないのだ。出来の悪い画家が、悪魔に魂を売ってかろうじて他人に受ける絵になっているが、根底には悪魔による人間の生贄の様子を描いているにすぎない。

ポール・セザンヌ 「赤いチョッキの少年」 1888年~89年 ビュールレ・コレクション(スイス・チューリッヒ)

この絵の少年は手が異様に長い。その理由を評論家は推測するが、どれも当たってない。結論から言ってしまえば、少年の手は肩から切られて外れている。下にずれているので長く見えるだけの話だ。「神」(悪魔)への生贄の肉として存在しているので、既に少年の身体はと殺場の豚のように解体されている。

肩で切断されているので、下にずれた分筋肉の筋や血がうっすらと見えている。

この手が机に見える他の生贄を押さえ付けている。それらの人間の身体は足の途中とかで切られている。

腕の周り、机の人体の周りには血の色が見える。

左手も切られていて、もう形がおかしくなっている。手指はどうなっているのか。目は既に瞳孔が開いている様子で、恐らく首も切られていて、手で押さえていないと落ちてしまうだろう。首の下に小さな人間がいる。頬にもみ上げのような形で黒い物が見えるが、小さい人間の血か、少年の首から出た血だろう。

全体図。右上から爬虫類型の「神」が降りて来ている。

少年の首を鼻先に乗せて、少年に手・足・胴体は「神」の口の中に半分入っている。少年の下半身・机の上の別の人間たちはこれから喰われるところ。

分かり易くなるかもと、色等を変えてみた。

ドミニク・アングル 「ドーソンヴィル伯爵夫人」(部分) 1845年 ニューヨーク フリックコレクション

手が肩から切断されていると言っても信じない人が多いだろうから、こんな例を挙げてみる。伯爵夫人の肖像画の部分図だ(上図左)。この夫人の腕は明らかに下にずれている事が分かるだろう。特に右手はおかしな所から生えているような感じになっている。この腕の部分を切り取って上にずらして張り付けてみた。縦方向に縮めてもみた。これで少しは自然に見えるようになったと思う。

腕が下にずれるのは作者の作為ではない。作品全体の為の変形でもない。ただ「神」の為に家畜が解体されている事を示したいだけの事だ。

他の作品にも手が異様に長い物が無数にある。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「モナ・リザ」 1503~1507年 ルーブル美術館

例えばこの「モナリザ」においてさえ、腕が下にずれている事に気付かないだろうか。この絵では肩にショールを掛けたりして巧みにごまかしているが、夫人の身体の輪郭線が微かに辿れる。すると上図右のような形になって、肩の所で腕が落ちている。「モナリザ」は首が長い夫人だとか、なで肩だとか言われるが、本当の所は腕が切られて下に落ちていると言う事なのだ。

これだけ事実を突きつけてもあえて信じない人も多いだろう。それは生まれてこの方洗脳されて来ているからでそれもある程度仕方がない。自分たちが「神」の餌として存在するなどと、荒唐無稽に思えて、また恐ろしすぎて信じることが出来ない。しかし自分の目を信じて自分自身の判断で現実を受け入れるしかない。

 

モネ 「印象・日の出」 地上の人間を繁殖させて食糧にする

モネの絵は細かい部分は描かれて無いのでよく分からない。ただ全体的に感覚的に捉えれば感じ取れる部分が多くある。人が目から脳を経由して物を把握すると言う事はこういう事かもしれない。人は写真機と違って自分にとって最も関心のある事象しか把握しないから。

クロード・モネ 「印象・日の出」 1872年 マルモッタン・モネ美術館 

この絵などは港らしき景色と船らしき物が何となくそこにあるように描かれているだけなので、一般受けしないだろう。しかし長い時間向き合っていると次第に朝焼けの中の港が認識でき始める。港湾施設のクレーンとか、工場の煙突とかも見えて来る。

今までの絵画では物の形がはっきりと誰でも把握できるように、写真のように描く事が求められていたのが、恐らく写真機の発明のせいで具体的描写に価値が見出せなくなったのだろう。より人間の感覚を中心にした絵画が描かれるようになった。

ウィリアム・ターナー 「海岸に近づくヨット」 1840~45年 テート・ギャラリー

この絵の30年ほど前、モネはイギリスに渡ってターナーの絵を観て影響を受けている。ターナーのこの絵は港のヨットを描いた物だが、モネの絵と非常に良く似ている。同じように空の中に明るい陽の光が霞んで見えている。ただヨットも海岸もはっきりとは捉えられない。

ターナーの絵を全体的に、巨視的に見れば、まるで頭蓋骨がそこにあるような形が見えて来る。目の窪みの暗い部分と額の明るい部分が、それと思えばそれにしか見えないほどはっきりと見えて来る。

そして同時にこの絵には別のテーマも含まれている。空の部分には巨大な「神」の顔。その口の下には人間の形をした物が隠れている。すなわち「神」が人間を食い物にしている図である。

モネの絵に戻る。コントラストを強めるとこんなに赤色が浮かび上がってくる。単に朝焼けの赤色と言うのではない。人の身体から噴き出る新鮮な血のような色である。

時間を掛けて良く観て、イラスト化しながらさらに良く観る。イラストも何回も描き直す。するとこんな隠し絵が見えて来た。

ターナーの絵と同じように空に巨大な「神」の顔、水平線下に生贄の人間の姿が複数組見える。こちらの人間たちは、皆性行為をしながら喰われているようだ。尻から子供を産んでいる。

上図左。モネの絵を遠目に見た図。ターナーの絵と同じように骸骨のようだ。

上図右。後背位で性行為をしている人間たちが三組ほど見える。そこを強調してみた。

上図右。巨大な「神」が、性行為をして繁殖している人間たちを口に入れている図。

地上で知らずに繁殖行為に励んでいる人間たちを、空からやって来て食糧としているのが「神」である事が描かれている。

 

人間は地上を這いずりまわる家畜である。他の星では生きていけない。

最近は政府の増税策がひどすぎて年金だけでは生きて行けないほど国民が苦しめられている。死ぬまで働かなければならない。しかもその年金さえもなんだかんだと理由を付けて減らされる。日本だけではない。世界中で同じようなことが起きているようだ。一部特権階級による搾取が年々露骨に見え始めている。「神」=「悪魔」の協力者だけが助かろうとしている。悪魔の滅ぶ前の最期のあがきかもしれない。

 

ジェリコー 「メデュース号の筏」 飢餓による人肉食 生命を維持する為には必要だった

この世に起こる事件・事故。その全てが「神」の差し金によって起きているのではないか。

この絵は、1816年モーリタニア沖で座礁し、147人ほどの人が筏で漂流するフランス巡洋艦メデュース号の人々の事故を題材にしている。早世の画家ジェリコーの27歳の時の作品である。食糧も無く、他の船に発見されるまで13日間筏の上で過ごし、苦しい生活をしていたの15人の人々が、遠くに船を発見した瞬間を絵に描いている。

テオドール・ジェリコー 「メデューズ号の筏」 1818~19年 ルーブル美術館  

491cm×716cm

大きい有名な絵だが高画質の物は見つからなかった。画面はほとんど黄土色一色と言っても良いほど無彩色に近く、しかも暗い。陰になった部分を画像処理ソフトで明るくしようとしても形が少しも見えて来ない。Wikipediaで2073×1403ピクセルの画像があったがそれ以上の物が無い(部分図にもう少し高画質な物もあったのでそれを合わせて使った)。

明るくしてみる。ルーブルの大広間で幅7メートルのこの絵をベンチに腰掛けて見られるようになっているが、真ん中のテントの中の暗い部分は見えるのだろうか。

筏が菱形に描かれ、人物がピラミッド型に構成され、最上部の服を脱いで振っている黒人に目が行く。その下には、手を上げている人、倒れたままの人、あきらめの表情の人等、様々な人間模様が劇的に描かれている。

水平線のかなたに点のように小さく見えるのが筏を発見する事になる船。

手を上げているのはまだ元気のある人。手も上げられず、もう起き上がれないほど衰弱している人もいる。

布でテントが組まれており、その中の暗い部分が絵の中心部に当たる。テントの中にいるのは皆に大事にされるような人物なのだろうか。

頭を抱えた男が見える。口に何かを咥えているのか。既に頭が狂ってしまったのか。

その奥にもう一人他人らしき影がある。誰だろう。まるで死神のようだ。

画面中央手前部分。顔や身体が全て逆光で黒くなっている男がいる。

その手前にうつ伏せた男。左肩に大きな傷口が見える。右肩は腕がもがれたように無くなっている。逆光の男はこいつを喰っているのか。

13日も食糧も水も無しに生き延びるには、死者の肉を喰うしか無いのかもしれない。

うつ伏せの男の右腕は肩から無くなっているし、左肩は肉がえぐり取られている。

下半身は既に存在しないのかもしれない。それとも下や右後ろにある足が逆光の男の物では無く、この男の足である可能性もある。

逆光の男の表情。他の船に発見され救助されたらこの人肉食がばれてしまう気まずさが表れていると思う。

この男の手先はどうなっているのか。右手で足を、左手で手を持っているのではないか。左肩に見える黒い物はうつ伏せの男の腕か。

肉は火も通さず生で喰らうしか無いのだろう。

画面左端の男。腹から下が無い。頭の後ろとか首に巻き付いているぐちゃぐちゃした物は内臓か。いずれにしてもこれは生存者たちの為の食用肉。

最終的に助かったのは15人とされるが、ここにはそれ以上の人物が描かれている。15人以外は死体だろう。右端で水に浸かった死体には首が無い。その他食糧としての死体が筏に乗せられている。

中央のテントの中の頭を抱えた人物は、自分たちの共食いが露見する事を恐れているとしか思えない。

 

そしてこれらの人々の悲惨な運命を現出させているのが、画面全体に大きく描かれた「神」と言う存在。絵を遠くで見た方が、またはネットでサムネイルのような小さい絵で見た方が発見しやすい。

この世の人間の運命はこの「神」の導きに拠っているらしい。人間同士が共食いをしようと何ら動じない。元々似たような事を人間にやらせているのだから。有機物で出来た生物が有機物を摂取するのは当たり前で、家畜の肉を何の疑問も無く人間は喰っている。「豚」はどうやら猪と人間の遺伝子を組み合わせた生き物だと思っている。「豚」を喰う事は人間の共食いと言えるのだろう。人間も喰われる存在である事を認める必要がある。