名画の中の人喰い蛇

美術品が教えてくれる命の意味を農作業しながら考える。

モネの写真 彼に取り憑いた悪魔が写っている

今回はWikipwdiaから採ったモネの写真である。

写真の背景に化け物が見えるのは僕だけだろうか。誰が何といっても僕は自分の眼が見た真実だけを信じたい。

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クロード・モネ 1840年~1926年 

この写真は1899年有名な写真家のナダールが撮影したとあるから、モネ59歳の時の写真である事に間違いないだろう。

写真の背景に巨大蛇の顔が見える。

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モネの頭の向かって右側に、画面の四分の三くらいを占める蛇の頭がある。左目が黒く右眼が白っぽい。モネの頭を後ろから喰い付く形でそこにいる。その蛇の顔の上に乗るような形で少し小さめの蛇の頭がある。よく見るとそいつらはより小さな蛇の顔が集合して出来ている。それらが作る微妙な陰影がモネの右上に悪魔の顔のような物を見せている(上図右のイラストで明るい黄緑色で描いた部分)。モネに取り憑いた異次元の存在が見えているのだろうか。

肖像絵画と全く同じように背景に蛇の正面顔が写真でも見えると言うのはどういう事だろうか。今まで見てきた中で、現代のポスターや広告看板等の中の写真にもそれがあった。有名人の写真にも何度も見かける。例えば横山大観の写真や手塚治虫の写真にも見えた。もしかしたら名画と言われる絵には写真技術が使われているのではないか。対象を写真に撮り、Photoshopで画像処理(油絵タッチ・パステル調・フレスコ画調に変換)しているのではないか。モネならモネ風に色鮮やかに原色を生かして、筆跡をわざと残して加工した物を我々は見せられているのではないか。今のPhotoshopより進化した未来の写真加工ソフトを蛇の化け物たちは持っている事が予想される。

あるいは人間が眼で見る世界は元々がコンピュータが作り出した仮想現実であり、ゲームの世界の様にどんな風にでも変化可能であるのかもしれない。蛇たちは人間に恐怖を植え付けたいから蛇に満ちた世界を見せつけているに違いない。写真・絵画・TV・映画等の中で恐ろし気な悪魔像を組み込んで知らず知らずのうちに人の精神に恐怖・畏怖心を抱かせることをを強いているのかもしれない。そして宗教や学校教育等で神に従う順応性を身に着けさせる。

人間の存在は形の無い霊魂だけであり、肉体はこの世の有機物を組み立てた仮の存在にすぎない事がだんだん分かって来た。外の世界も微細な無数の有機生命体の集まりであるのかもしれない。

だからこの写真の様に自由に蛇神の画像を見せつけられるのであろう。

蛇神どものメッセージとしては、人間は自分たちの食糧であると言う事がひとつ。大蛇小蛇が人間に喰い付き、巨大な蛇がそれらを喰い、最終的に半透明の異次元世界の超巨大な蛇がそれらをまとめて喰うと言う事だろう。

この世は有機生命体の集まりで出来ていると言うのがふたつ目。小さく見ても大きく見てもそれぞれ別の蛇が見え、また隣通しの蛇を合わせてみてもまた別の蛇が見えると言う、その人の見方によって見え方が違って来ると言う事。

三つめは、蛇神どもは人間を恐れさせるために悪魔や化け物・妖怪・龍等の伝説上の生き物・レプティリアン等の像を蛇で形作り見せているらしい事。ただレプティリアン像を作る時指が三本にしか表現できないようだ。

 分からない事を探り探り考えながら書いているので取り留めのない文章になってしまった。

モネ「キャピュシーヌ大通り」 人間を喰う悪魔と取引した画家

若い頃モネに憧れた。原色の作り出す明るい風景を真似してそれっぽい絵を描いてみたりした。老後はモネの様に手や眼の不調に負けずに絵筆を握り続ける人であればと思い、野外に絵の道具を持ち出して光の中で人生を送りたいと思っていた。
ところがこのモネと言う画家、そんなに尊敬すべき人では無いらしい事が最近分かってきた。修練の結果の作品作りでは無く、いわば悪魔の手を借りて人を魅了する技術を現出していただけであったらしい。

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クロード・モネ 「キャピュシーヌ大通り」 1873年 ネルソン・アトキンス美術館(カンザスシティアメリカ)

第一回印象派展に「印象・日の出」と共に出品されたのではないかとされる作品で、その展覧会場のあった大通りをビルの高層階から俯瞰した図であろう。大通りの地面が真っ白である。雪の降った後なのだろうか。並木の連なった右側に大勢の人々が歩いているが、皆黒っぽいコートを着ているようである。並木の左側は車道で、馬車の後ろ姿が何台も見える。車道のさらに左側には四・五階の建物が描かれ、通りの人々の向こうにも建物が霞んで見える。人々のいる所にはオレンジ色の風船のような物が見えるから家族連れでにぎわう冬の日の大通りが描かれているようである。雪がやんで皆が思わず外に出て来た所だろうか。天候の移り変わりを描くモネならではのモチーフであろう。

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ところがこの絵の中に、不自然な巨大な怪物が見えた。並木のこの部分である。葉を大分落とした樹木の中に地面に口を付ける蛇の頭が見える。それも一匹でなく二匹・三匹、いや奥にもいるから数え切れない。人々の集まりの方に口を向けているから、また例によって人を喰っている図ではないか。

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画面右上、人々の一番遠くの様子である。画質を変えてよく見ると、人間が大小さまざまな蛇に襲われているのが見えて来た。この作品は縦80センチほどの比較的小さな作品で筆跡が多く残る。一人の人を平筆ひと塗りで描いたような荒い筆跡だが、時間を掛けてよく見るとそのひと塗りの筆跡の中に微妙な濃淡がある。その濃淡の中に人の顔や身体が意外と丹念に表現されてるのが分かって来る。例えば上図真ん中下あたりの手をつないだ親子、左下のやはり手をつないだ親子が次第に見えて来る。その上方部には、蛇に呑み込まれる人間の下半身や、人の顔がたくさん浮かんでいるのが見える。僕には右のイラストの様に見えた。不明確な表現なので見間違いがあるかもしれないが、大蛇の食人図である事に間違いない。

後方の大蛇たちは小さく見ても蛇の顔だし、大きく見てもまた蛇の顔である。人間を呑み込む蛇の後ろにその蛇を呑もうとする蛇が降り、その後ろのさらに大きな蛇が口を開けている。

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画面左の車道の方にも人間を喰う巨大蛇が描かれている。人の姿と思える部分にはその周りに必ず口を開けた蛇がいる。地面さえ白い大蛇で描かれている。

上図左下に描かれているのは荷馬車だろうか。この手すりの部分に薄茶色の人の形が見える。これが布に包まれた生贄の人間に見えて仕方がない。ひょっとして他の馬車の屋根に見える水色の部分も布に包まれた人間であり、蛇神に生贄を捧げに行く所?・・・・と言うのは考えすぎか。

蛇の顔に見える部分が発見されたら、その口先にあるのは他の蛇かまたは人間の体の一部分である。

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画面右下部分である。右端に逆さ吊りになった女の人が見えるだろうか。手足が千切られた身体が逆さになっているもしくは頭だけが大蛇に咥えられて逆さになっている。

その他イラストにしたように人間が地面の白い大蛇につかまって喰われているように見える。

 

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画面全体を見る。

奥や中央の並木は人を喰う蛇が集まって大きな蛇になっている。そしてその大蛇が何匹か集まってより大きな大蛇に見えるように描いてある。イラストで緑色で描いた蛇は左の蛇と合わさってより大きな蛇の顔になり、さらにそれらを呑み込むように巨大な蛇の頭が画面いっぱいに描かれている。こういう三重・四重の表現は人間には出来ない。蛇神(悪魔)の使ういわばコンピュータソフトウェアを借りる事でしか画面上に作り出せ得ない。

まるで蟻塚に来て蟻を大量に喰うアリクイのようである。

人々は路上にS字を描くように並んでいる。その蛇行の先端には画面中央下の蛇の正面顔がある(イラストで青く描いた)。その蛇はこちらを向いて口を開け、人間をあざ笑っているような顔をしている。

空の雲にも無数の巨大蛇が人間を喰いに来ている。

モネはおそらく貧困時代に悪魔と手を結び、卓越した、人を魅了する技術を借りる代わりに魂を売ったのだろう。弱い人間なのだ。

 

マネ「老音楽師」 生贄の儀式?

生命とは何か、人生とは何かを知りたい。人はどうして生まれ、何処へ行くのかを何とかして知りたい。自分が得意な美術の世界、とりわけ絵画の世界にこの疑問に答えるヒントが隠されていると思った。どうやら人間は蛇神によって創られた食糧としての家畜であるらしい。その神に定期的に生贄を捧げるのが使命である事を古今の名画は教えている。(ただこの家畜たちにも近年になって自我が目覚め、レジスタンスを起こし始めていると僕は認識している。)

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エドゥアール・マネ 「老音楽師」 1862年 ナショナル・ギャラリー(ワシントンD.C.)

老いた音楽師が田舎の道端で子供たちにバイオリンを鳴らして聞かせている。子供たちは貧しくみすぼらしい服装で、左の赤ん坊を抱いた少女などは靴も履いてない。子供たちは神妙に音楽に聞き入っている。右の男二人もこの小さな音楽界に参加しに来ている。老音楽師は人生に達観し、こんな貧しい子供たちにさえ音楽を与える。加藤登紀子の「百万本の薔薇」のメロディーを何となく思い起こしてしまった。

老音楽師は鞄の上に腰かけ、今バイオリンの弓を使わず弦を指ではじいて演奏している。足元手前には袋状の、肩掛けバンドの付いた鞄が置いてある。

この足元の鞄に違和感を覚えた。何の意味もない荷物を手前の一番目立つ場所に置くはずがない。

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僕にはこの物体が人間の上半身に見えた。肩掛けバンドに見える部分はそんな色の布に包まれた頭部である。両手を胸の前で交差し、白い布で包まれて仰向けに転がっている。胴の切断面が少し見えている。

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画面中央手前には岩のように見える物があるが、画質を変えてよく見ると人間の体である。上図イラストの様に左側に尻を見せた裸の体が横たわっている。その右側に別の体が覆い被さっている。手や足もあちこちに重なって置いてあり、バラけた人間の遺体が山になっている。右の上半身布にくるまった遺体よりも少し小さめの体である。

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老音楽師の顔。こちらを凝視している。唇が異様に赤く、頬が鼻の横の所で膨らんでいる。音楽を奏でているというより言うよりも何かを口に入れて喰っているのであろう。それも血の滴るような何かを。口の周りの髭も血で染まっているように見える。

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赤ん坊の子守をする貧しい家の少女。よく見ると眼も鼻も口も判然としない。この顔を作っているのは肌色の大蛇ではないか。上から下がって来た大蛇の両眼が見える。また髪や体等別の部分も蛇で組み立てられているのが見て取れる(上図右イラスト)。

抱かれている赤ん坊も蛇で造られている。眼に見える部分は蛇の大きく開いた口である。小さな可愛い手も肌色の蛇の頭である。蛇で形作られた赤ん坊はその肩に掛けられた布に見える茶色い大蛇に喰われている。この子は死んだ眼をしている。

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音楽師の手の表現が何かおかしい。右手は人差し指と中指の間に弓を挟み、親指と中指で楽器の弦を弾いているらしいが、こんな指の形は(自分でもやってみたが)出来ない。親指と小指は他の三本の指と別の蛇であろう。

弓の先が隣の少年の腹に突き刺さっているようにも見える。糸鋸のような形のこの弓で少年の腹を切ったのであろうか。

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画面全体をイラスト化してみた。音楽師以外の人物全て露出している顔や手・足以外はそこに存在しない。全て蛇に取って代わられている。手前に転がった遺体がその失われた部分である。中央に少年二人の体(イラストではここに頭部を描いたが見間違いかもしれない。少年の頭部は上にあるから)、右側にその大きさから少女の上半身が転がっていると思われる。地面は血だらけである。少女の抱く赤ん坊も血を流し少女のスカートを汚している。少女の足元には大量の血が溜まっており、右の踵も血が付いている。

その他画面左上の木の葉にも蛇の顔がたくさん見られ、地面にも空にも巨大な蛇が無数にいて、皆人間たちに向かって来、口を付けている。

老音楽師だけが別者と思える。生贄の人間たちを自ら喰っている。この老人の背後に喰い付く大蛇がいるが(イラストではクリーム色の部分)、これは老人の下半身に繋がっているのかもしれない。神の子イエスやマリアのような下半身が大蛇の化け物であるかもしれない。

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画面全体を大きく見てみた(上図左)。その為画像を小さくし、ぼかしを入れた。この方が全体を大雑把に観れる。空の中に人物たちを喰おうとする巨大な蛇が見える。中央に一体、その左右に一体ずつが目立つ。さらにこの三体が合わさって画面全体に一番大きな一体が見えて来た。右の男のシルクハットと左の少女の頭がその両眼である。

この絵の中の人物たちは小さな有機生命体(蛇ではあるが)の集まりで出来ており、より大きな有機生命体の食糧となっている。またさらに大きな有機生命体が彼らを喰ってその命を保っている事を示している。人間もこの食物連鎖の中の途中の生命であり、決して地球の支配者では無い事を彼らは伝えている。

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蛇神への生贄の差し出し方だが、似た表現が他の絵画に見られる。マネのこの絵では鞄に見せかけて白布に包んだ人間の上半身を描いてあるが、これと全くと言っていいほど同じである。

上図上部は横山大観の「龍興而到雲」(1937年)の部分。龍の下に岩や波が描かれているがそこが生贄の人間の姿が見て取れる。両腕を胸の前で交差させて布に包まれている。

上図左下がゴーギャンの「ファイヤーダンス」(1891年)の部分。白布に包まれたまたは白衣を着た人間が転がされている。周りの巨大蛇が喰っている。

上図右はミレーの「晩鐘」の部分。祈りを捧げる女の後ろの一輪車の上、布に包まれた子供が乗っている。これから生贄にされる所だろうか。

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上図左はモネの「白と黄色の睡蓮」(1915~1917年)の部分。黄色線で囲った部分が、ゴーギャンの上の絵とそっくりではないか。白布に包まれた人間が足を折り曲げて横倒しになっている。その上から巨大な蛇が襲って来る。

上図右はミレーの「パンを焼く農婦」(1853~1854年)の部分。かまどにパンを入れる姿と言うよりも白布に包んだ赤ん坊を恐る恐る窓の外に突き出す女にしか見えない。

白布に女子供を包んで蛇神への生贄に差し出す、と言う形の意味が分からない。ただこの形が西洋でも日本でも19世紀・20世紀でも行われているらしいことは推測される。日本の龍神への生贄伝説も、伝説では無く今現在も秘密裏に行われている儀式なのかもしれない。

ドガ 「舞台の花形」 血塗られた舞台

エドガー・ドガ 「舞台の花形(エトワールまたは舞台の踊り子)」 1878年

オルセー美術館

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この有名な作品にも残酷な食人の表現がしてあるのだろうか。

舞台の上で花形バレリーナが踊っている。踊っている本人以外の人々、周りの舞台セット等は全て荒く表現され、見る人に踊り子だけに注目するようになっている。斜め上からの構図で、踊り子が両手両足を伸ばしその右足を軸に回転するかのように、動き滑らかに生き生きと踊っている様子が描かれている。画面のほとんどが床面である。照明は下方から当てているらしく、踊り子の顔の下側が光っている。背後に見えるのは稽古をつける指導者と他の踊り子たちだろうか。

背後のぐちゃぐちゃと描かれているのは、緞帳にしてはおかしな形で、舞台セットにしても何を表しているのか分からない。この辺に秘密が隠れていそうである。

まず踊り子本人を見る。

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四方八方から大蛇に喰い付かれている。画質を変えると右足と両手・顔以外は蛇が形作っている。右手には直径50センチはあろうかと思われる大きな大蛇が喰い付いている。右手を横ぐわえした大蛇がはっきり描かれている。この大蛇は向かって左背後の人々の見守るあたりから這って来て踊り子を襲っている。

左手もその手先を蛇に咥えられて、その為に上に挙がっているのだ。両手とも既に千切られていて肩に張り付いた大蛇に根元を咥えられている。

右足も同様に胴体に繋がってない。腰のあたりにいる大蛇に咥えられて、床にいる大蛇に喰われている。足の先の床面に血だまりが出来ている。血だまりは同時に大蛇の口にもなっている。左足は無い。後ろの方にそれらしきぼやっとした形があるが、それは右手に噛み付いている大蛇の胴体もしくはそこに喰い付く別の大蛇である。

踊り子は自らの意志で踊っているのではなく、手先・足先を大蛇どもに咥えられてそのポーズをとらされているだけである。

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女の口は異様に赤い。口から血を出しているように見える。表情が無い。眼全体が黒く死人のようである。頭の上には金色の蛇二匹が二段重ねで正面顔を向け、眼を光らせている。踊り子が華麗に踊っているのではなく、大蛇どもに襲われ喰われているのである。

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右手の所を拡大した。腕輪をした右手、その上に信じられないくらいの大きさの大蛇の正面顔が乗っかっている。スカートの後ろ部分の表現ではない。首に巻き付いた二本の黒紐(これも蛇だが)の下の方の所あたりに、右手を咥えている大蛇の左眼がある。右眼は手先の上方である。踊り子の右手はその二本の牙でしっかりと押さえられて血も出ている。まさにリアルな蛇の正面顔である。

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踊り子の背後に阿鼻叫喚の地獄絵図が描かれていた。巨大な蛇どもがうじゃうじゃいて、そいつらに無数の人間たちが喰われている図である。上図イラストの様に僕には見えた。大蛇どもに足から呑まれ、横に咥えられ、または頭から喰われた大勢の人々が咥えられたまま宙に浮き、折り重なるように存在する。中には既に骨になった人もいる。

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比較的形を捉えやすい人の姿をこの部分拡大図で丸印を付けてみた。ちょうど踊り子の頭の上あたりに見える部分である。上図下方の丸印の中の人は体を横たえているが右方の顔はこちらを向いている。頭のてっぺんが右下に向いている。足と頭両側から大蛇に噛まれている。

その上の小さな丸の中に白骨化した人がいる。骸骨である。体は左側にあるようだがよく分からない.

その上の丸の中は女だと思えるが、尻・背中・頭が見えている。上から頭を下にして落ちて来るような形である。頬に光の当たった顔が見える。

これら人間の体が同時に蛇にも見えるようになっているからややこしい。

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背後の人々の中で唯一体全体が描かれているのがこの二人である。指導教官(?)の男と踊り子の女。この二人の左側の荒く描かれた部分が人の顔に見える。二人の体よりも大きな顔である。これは男の顔であり、大蛇が千切って咥えて画面の前面に突き出して近付けているのではないか。前々回見たドガの「風呂の後」では人間の上半身が切断されて咥えられ前面に突き出されていたから、これと同様な表現が採られているとみられる。この部分拡大図は色は変えてはいない。画質を変えて暗い部分を見易くしただけなので、この真っ赤に見える所は元々絵の中にあった色である。だから男の顔は血で真っ赤に染まっているのだろう。

二人の頭あたりを拡大してみると二人とも頭が無い事に気付く(上図右上と右下イラスト)。男の頭はそれと同じくらいの大きさの大蛇に呑まれ、大蛇自体が男の頭の代わりになっている。ウルトラマンの様に見えるのは頭頂部分に小さめの蛇が顔を乗せているからである。女の顔部分は同じ肌色の大蛇が代わりをし、そいつを黒っぽい大蛇が咥えて髪の毛に見せている。

左の大きな男の顔の中に人間の手足のような物が見える。女のスカートの右下に茶色く変色した人間の足のような物が見える。切断されて骨が突き出してスカートのふりをした白い大蛇に咥えられている。

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もう一度言うが上の絵は色を変えてはいない。Photo Shopで画質調整し、明るさ・コントラストのレベル補正をしただけである。 ドガのこの絵には血の様に赤い色が元々入っている。だからこの絵は床一面に血が大量に流れているのを表しているのである。踊り子の足元の血だまりは踊り子自身の血、その他の血は背後で喰われている大勢の人々の血が流れて来ているのであろう。

またよく見ると、踊り子に向かう大蛇どもとは別の物が見えて来た。作品を見る我々の方を向いた(正面顔を見せる)蛇どもである。画面下の方に多く発見できる。踊り子の足先下にいるのが見つけやすいかと思う。さらに画面左下、白く光った部分も蛇の正面顔である。作品を見る我々を見つめ、何か言いたそうである・・・・「お前たち人間は俺たちの食い物なんだぞ。知らないだろう。」

名画と言われる物には名画と言われる理由がある。それは秘密をいかに巧みに隠し込んであるか、それが出来ている物を名画と言う。秘密を知っている支配層の者たちは名画を高く取引し、美術館で有り難く鑑賞させ、それが大事である事を人間に教える。しかし実際はこんな物であった。蛇神が人間を支配するための道具ではないか。

名画を鑑賞すると言う事は自然にこの食人画を目にしている事になる。サブリミナル効果と言うのか、人間の潜在意識の中にこういう食人画があったとしたらいざ実際に喰われる時(何万・何十万・何百万分の一かの確率で)素直に抵抗することなく身を任せる事になるのではないか。その他宗教でも人間は神に従う事を教えている。

ドガ「風呂の後の朝食」 今まで見た中で最も残酷な絵のひとつ

前回のドガの作品を同じ画題で少し大きくした物を見付けた。怖いもの見たさでまた検討する事にする。

エドガー・ドガ 「Breakfast After The Bath(風呂の後の朝食)」1895~1898年 スイス バイエラー財団 

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縦横約80cmと前回より2倍以上の大きさになっている。これの方が後に描かれた物らしい。

表現の残酷さも前回よりも勝っている。

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画質を変えるとより分かりやすい。風呂から上がる女に蛇が張り付いているのは同じで、右手・右足・頭が切断されてるのも同じ。ただメイドの抱える赤ん坊は見えなくなっていてはっきりとティーカップが描かれている。床が全面血の色になっている。左下のタオルを模した巨大な蛇と右のカーテンを模した巨大蛇の表現が若干違っている。

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最初血だらけの床に人間が横たわっているのが見えた。風呂から上がる女の足元に左向きの顔がある。リアルに描かれている。肩から腕も見えている。ただ下半身が無い。腹で切断されて両足は胸の上に置いてあるようである(この両足は同時に人間に喰らい付く赤い蛇の顔にも見える)。

左の椅子の上に掛けられたタオルのように見える巨大な蛇のあたりには、前回よりも多くの人間の体があるのに気付いた。口先に逆さになった人間の下半身・画面左下隅には体を蝦ぞりにした人間がいる。この蛇の背中、風呂上り女の左手先あたりには子供くらいの大きさの人間が乗っている。その子の背に手を掛けた女(?)も乗っている。巨大蛇の頭部はよく見ると尻をこちらに向ける形で女が乗っている。踊り子風のスカートを履いているように見える。ちょうど四つん這いの格好である(イラストではこの女だけ黄色でなく青緑色で描いた)。この辺りは巨大な蛇の頭であり、また人間の生贄の山でもある。蛇の腹の中に呑まれている事を示しているのか。

床は蛇どもに喰われた遺体の為に血の海になっており、これ以上ない凄惨な光景である。よくここまで残酷な絵が描けるものだ。またこんな絵が大事に保管され美術品として展示されているとはどういう事か。

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画面右の、黄緑色のバスカーテンの中にも犠牲者がいた。画面を縦に縮めて上を少しずらして菱形にすると見やすくなる。上図で矢印を付けた部分である。

裸の女が立っているように見える。横を向いている。両手を下に垂らしている。右手先に同じ色の大蛇が喰い付いていて紛らわしくなっているが、確かに人間の女であろう。上から降りて来た黄緑色の巨大蛇に呑まれている事を示しているらしい。前回見た小さい絵では人間が呑まれる途中だったが、ここではすっかり呑み込まれてしまっている。フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」では絵を縦に縮めると逆さ吊りの人間が見えたし、「真珠の耳飾りの女」でも縦に縮めるとターバン部分に人間像が表れた。この絵でもそれと同じ方法が採られているのか。一見しただけでは分からないように隠されている。

画像を縮めて気付いたが、画面下方の四つん這いの後ろ向きの踊り子が、同時にまた別の物に見えたりする。頭をこちらに向けて座る幼児がいるのか。四つん這いの女の右尻が幼児の顔で、土下座するような形で座っている。ただこの子は人間の顔をしてないので見間違いかもしれないが、口先のとがった、宇宙人のような爬虫類のような顔をしている。この辺は作者が意図して同じ部位が何にでも見えるように巧みに表現しているのかもしれない。メイドの持つティーカップの上下に人の顔らしい物が見えたり、風呂桶の中に青い布で包まれた赤ん坊がいるようにも見える。お化け・妖怪・レプティリアン等もこう言った蛇の集合体の見間違いかもしれない。

画面全体にかけて巨大な蛇の顔が描かれている。上から(空から)降りて来た蛇神であろう。床面に広がった血をすするように口をそこに付けている。ここは蛇神にとって朝食を採る場所であるのかもしれない。生肉や生き血が散乱している。

人間は家畜の肉を火を通して調理して食べるが、奴らは生の食材をそのまま食べる。食習慣の違いである。しかしその食事風景をわざわざ絵にしてこうして残すと言うのは理解しかねる。食材としての人間は恐怖心を抱かせるとよりおいしくなると誰かが言っていた(デーヴィット・アイクだったか)。

ドガ 「風呂の後」 ここまで残酷な表現を誰も気付かないのか?

高画質画像を多くアップするとページがどうも重くなってしまう。申し訳ない。

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エドガー・ドガ 「After the Bath (風呂の後)」 1895年 フィリップスコレクション(アメリカ)紙にパステル画

幅約33cmの小品であるが、ひどく残酷な表現をしてあるのが目に付いたので今回扱う事にした。

ドガと言えばバレリーナの可憐な姿を多く描く画家として有名だが、以前「水辺で髪を鋤く女」・「ベレッリ家の人々」・「舞台稽古」を見た限り、女たちの手足が大蛇に喰われて無かったりした絵であった。今回の絵は中でも一段と残酷さを増した絵である。

一見すると裸の女がバスタブから上がる場面であり、メイドがバスタオルを持って待つ姿が描かれているようである。女が左手を突いている所はバスタオルの掛けてある椅子だろうか。右の方にはカーテンのような物がやはり椅子らしき物の上に置かれている。ボッティチェリの「海から上がるヴィーナス」では花の妖精が布を持ってそれを掛けようとする場面が描かれていたがそれを思い出す。

ただ女の表現に不審を持つ。なぜ後ろ姿なのか。なぜ股を大きく広げてバスタブを乗り越える姿なのか。右の手の表現が稚拙であるし、右足も何か変である。メイドの顔には眼鼻が無い。左のタオルもよく形が掴めないし、右のカーテンのあたりも何がどうなっているのか分からない。左足の所に床に転がっている物は何だ。

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女の体には蛇が無数に張り付いていた。右手や頭は既に無く、大蛇に取って代わられている。尻が異様にデカいのは大蛇の頭がそこにあるからである。

蛇神たちが画家に描かせる絵は全て蛇で形作られている。だからこの女も爬虫類人であると即断できないかもしれない。蛇で形作られた人形を実際の人間を表していると見なければ話が進まない。蛇神の作画ソフトは架空の蛇を無数に集める形で用いているのだろうか。

人間の女が蛇に張り付かれ、その体の一部を喰い千切られ、周りからも大蛇どもに喰い付かれている。

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女は右足をバスタブから出るために上げているのではない。右足の上肢部分は蛇に喰われて既に無く、下肢が切断されてバスタブの中にいる大蛇に横咥えされているのである。その大蛇は後ろの大蛇に咥えられ、そいつもまたその後ろの大蛇に呑まれ、上方に向かって連結している。

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画面左上のメイド、俯いて頭を見せているのか、何か判然としない表現である。絵画の中で、主題以外の物をぼやかして表現し、中心の主体的画像を引き立たせることはあるだろうが、ここまで隠す事は無いだろう。このメイドも恐らく蛇に喰われて体が無くなっている。タオルを持つ両手も蛇のようである。(手にタオルの他にカップを持っているようにも見える。風呂上がりのお茶?)

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メイドがティーカップでなく赤ん坊を抱いているようにも見える。この場合赤ん坊の顔がどこを向いているのかは不鮮明で分からない。おそらく正面かもしくは風呂上がりの女の方(女の頭を呑み込んだ大蛇の方)を向いている。

赤ん坊の体は白い布で巻かれ、両手を腹の前で交差している。こんな姿をどこかで見た事がある。以前調べた横山大観の「龍興而到雲」の下端や、ミレーの「晩鐘」の一輪車の上、モネの「睡蓮」等の中にもこんな白布で巻かれた人間が描かれていた。生贄の昔からの形なのか。

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そして画面の一番前には犠牲者の遺体を置くのが法則であるかのようである。この絵では画面左にあるバスタオルは大蛇であり、人間を咥えて振り回し、持ち上げて呑み込もうとしている。人間の切断された上半身、うつぶせの形で大蛇が咥えてこちらにこれ見よがしに見せている。風呂から上がる女と比べてもかなり大きく描かれているのでよほど近くまで持ってきている事が分かる。この犠牲者は空中に持ち上げられている。この人の胴の切断面からは大量の血が流れ出ている。地面に落ちているのは内臓か何かだろうか。

真ん中にあるのは人間の足であろう。大きく描かれているのでかなり近くにあると言う事である。

右手のカーテンに見える物もやはり大蛇であり、人間を頭から呑んでいる最中である。腹のあたりまで呑まれている。右手は上げてバスタブの中に、左手は真下に下げている。下腹部に大蛇が張り付いて見分け難いがたぶん仰向けになっている。

バスタブの中に先ほど指摘した足先以外にも何か人体の部分にも見える所があるがよく分からない。

全体を見まわすと画面の三分の二くらいを占めて巨大な蛇の頭が風呂上がりの女の周りに大きく描かれている。その口は画面下方の人体のパーツに向かっている。

全体図もイラストにしようと思ったが、あまりに残酷な表現を見て、胃がむかむかして来て耐えられないのでやめた。同じ「蛇神の食人図」にしても、画家によって示唆するだけの柔らかな表現からこのドガの絵の様に露骨な残酷表現をする者もいる。

一度この絵をこういう風に見てしまうとそれ以外には見えなくなる。僕の他に誰も気付かないのだろうか。

 

ラトゥール「悔い改めるマグダラのマリア」 暗い部分に隠されている物

正月から気味の悪い蛇の画像を描くのもどうかと思うが、これが真実ならば受け入れて描くしかない。

今回の調査対象はフランスの画家ラトゥール。レンブラントとほぼ同時代に活躍し、「明暗法」を用いて「夜の画家」と呼ばれた画家である。レンブラント同様作品画面に暗部が多いのでそこに何が隠されているのかに興味を持った。

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ジョルジョ・ド・ラ・トゥール 「悔い改めるマグダラのマリア」 1635年頃 ロンドン・ナショナル・ギャラリー

画面の半分以上が真っ暗で良く見えない絵である。机の上に髑髏を置き、鏡に映ったその髑髏を頬杖をついて見つめる女、髑髏の下にあるのは聖書だろう(この箱のような物は鏡に映って本の形を見せる)。 胸元が大きく開いた服・長い髪と合わせて、この女がマグダラのマリアである事を示している。光源は蝋燭一本である。

画面を明るくしてみる。

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これで見やすくなった。女は部屋の隅の段差のある所に腰かけている。体をひねって足をこちらに向けている。右足は膝を立て、左足は画面左方向に流している。右ひざの上に左ひじが乗るような形である。机の脚と女の腰は壇上にある。

女の左手の指はなんと長いのだろう。鏡に映った髑髏の眼の部分にある白い丸眼鏡のような物は何だろう。画面下半分を占める暗い部分に何かモヤッとした形が見えて来る。以下順に部分を調べる。

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女の横顔。現代的な美人だが、顎の表現がおかしい。何かカエルの様に膨らんだ顎である。当てた手のひらに押されてこんな形になるのだろうか。唇に色が無く、口の中が赤黒い。口の下部分と手のひらの境界線部分が蝋燭の影になるはずだが何かおかしい。

口の中に血が溜まっているのではないか。口の下や手のひらに血が垂れているのではないか。

髪の毛の中・外に多くの蛇が見える。長い時間ここを見ていると次第に見えて来る。蛇がこちらを向き、口を開けて威嚇している様子が非常に微妙な表現で表されているのが見えて来る(上図右イラスト)。

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女の顔拡大図。口・顎・喉・手のひら部分をよく見ていただきたい。不自然な表現である事が分かると思う。顎のふくらみは何かを食べ、呑み込んでいる最中であることを示しているのではないか。女は右手で持った何かを口に運び喰っている。血の滴るような何かを・・・・。

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女の指はまるで蛇で出来ているかの様に細長い。親指の先が向こう側に見えているが手の甲の起伏と繋がらず不自然である。人差し指がどこにあるのかはっきりしない。指が三本にしか見えない。人間の手では無いようである。薄い服も全て蛇で出来ているようだ。

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聖書の上の髑髏の顔部分は人間の生の皮がまだ付いている。眼・鼻・口が光源の陰になって見えないはずなのによく見えている。頭部に大蛇が張り付いていて、大きく見せている。ゴーギャンの「我マリアを拝す」にあったスイカ様の頭蓋骨も大蛇が張り付いて大きく丸く見せていたのを思い出す。

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机の上に置かれた鏡、そこに映った髑髏の裏側。ここに人間の顔が隠れているのを発見した。髑髏の鼻の下、下向きの顔が描かれている(上図中央下・部分拡大図)。歯に見える白い物を口に押し付けた形で眼を閉じた女の横顔がある。これは上から蛇の口に咥えられているのである。

髑髏の眼の様にして置かれている白い丸い物はどうやら人体の一部であるらしい。左上から大蛇の顔が突き出ていて口でこれを咥えているから、人間の腕か足の切断された物らしい。白いのは周りの肉を綺麗に削がれた骨であるらしい(上図右イラスト・呑み込まれた部分は黄緑色で表した大蛇の頭の中に黄緑の格子で表した)。

鏡の右横にジャガイモの皮むき器(ピーラー)のような物が置かれている(上図左黄色の矢印)。髑髏の下の聖書の所にそれで剝いたと思われる皮のような物がある(同黄色矢印・浮いた小蛇にも見えるが)。マグダラのマリアと言われるこの女はこの皮むき器で人間の顔の皮を綺麗に剝いて喰っているのではないか。f:id:curlchigasaki:20190105102000p:plain

全体図をもう一度見直すと、この女は聖母マリアと同様に下半身が大蛇であることが見えて来た。女の体は腰から下が左へ流れ、左端で上方に向かう。机の下端にその胴体の部が見えている。この化け物の胴体の中には呑み込んだ人間のパーツがあちこちに見られる。フェルメールの「取り持ち女」の半身蛇の女の胴体に人間の手足があったように胴体内部の物を外側に描いて表している。同じフェルメールの「リュートを持つ女」の机の下の暗い部分に人体のパーツがバラバラと置いてあったのと同じように、ここにも人間にとって残酷な表現がなされている。

女の足部分に呑まれているのは手足や頭部のようである。左に向かった胴体の机下にあたる部分には人間の上半身が逆さになってはいっているらしい(イラストではうまく描けなかったが、仰向けになって口を開ける人間が左肩と左腕を見せているように見える)。机下から出て蛇女の胴体を飛び越している大蛇(イラストではピンク色)や、画面右下から出て多分人間の頭部に喰い付いている大蛇(イラストでは緑)がいてそれらが交差して分かりにくい。

壁にも巨大な蛇の頭が見える。真ん中の髑髏やマリア自身に喰い付く。

 

画面を極端に暗く描く画家はやはりその暗い部分に残酷な表現を隠し込んでいた。この絵は人間の生皮を剥がして喰う蛇女と蛇神の絵である。こいつらは普通人間に知られていない存在であるが、名画の中にこうして隠し込んである。

人間が家畜をと殺・解体・調理して食べるのと同じことをしているだけである。奴らは生の肉を新鮮なまま喰うのが好きなのだが、人間にそれを見られるといけないので隠している。この宇宙の有機生命体の原則は喰い・喰われの一点だけである事を奴らは名画の中に示して人間に教えている。人間にはテレビや映画・絵画・音楽等を通して騙しておく必用がある。家畜には何も知らせずに地球に放牧し、時々喰いに来る。牛・豚・鶏に対して「お前らはいずれ喰われる」と言う人はいない。その時が来るまで人間にはのほほんと気楽に生かしておけばいい。知能を高めさせてはならないと思っているのだろう。

ところが最近この事実に気付く人間が出て来出している。これは奴らの地球支配の終わりを意味している。