ジャン・フランソワ・ミレー 「種まく人」 1850年 山梨県立美術館
ミレーは同じ画題で複数の絵を描いている。僕が知りたいのは真の画題(人食い蛇の食人)の描き方がどう違うかというところである。
左が前回見たボストン美術館の物、右が山梨県立美術館の物である。
山梨の方は画面が黄色っぽく不鮮明な印象で、風が強いのか種が顔面の方に飛び散り大変そうだ。右手は動きが速いせいかはっきりとは描かれていない。ボストンの物と比べて男の足が短く歩幅も狭い。絵としては動的なポーズがより強調されたボストンの方が上だろう。しかし農業が土まみれの重労働であることを知っている僕には、泥にまみれたような山梨の方に共感が持てる。
前回同様に画面の詳細を順に調べる。
画面右下、やはり死体だらけである。大蛇に喰われまくっている真最中である。地面に半分埋まったボストンのようではなく、まだ死体が生々しい。
画面左下、種をまく男のまた下に女が仰向けになって頭をこちらに向けていると見えるのだがどうだろう(上イラスト)。じっくりと見トレースをしながらさらに見たらこんな風に見えた。死体に喰い付く大蛇の頭と骸骨が区別しにくい。左上にも大蛇に咥えられた人間がぼんやりと見えている。
画面左下隅にはこちらを向いた蛇の顔が並んでいる。これ見よがしに・・・「どうだ」と言わんばかりに自慢げな顔である。
男の両目が大きく見開かれているのがここではよく見える。
さほど解像度の高い元絵ではないのでよく見えないが、口から蛇か血が出ているらしい。
両目を見開くのも当然で、全身あらゆる場所を蛇に齧られている。頭は帽子に見える大蛇に咥えられているし、右手は背景の中にいる巨大な蛇に咥えられている。肘あたりまで呑み込まれている。首にも左手にも蛇が巻き付いている。
背後の空の中に巨大な蛇がおり、飛び散る種と見せているが実は男に喰い付く蛇である。
勃起した男根を握りしめているのは同じ。左手の表現は不明確で指だか蛇の顔だかわからない。種の入った袋は大きな睾丸を模しているのは同じだが、手にした人間の胎児の表現が違う。
ここでは布を手で握ってその布の端が右下に流れるように表現されているがそれが胎児である。よく見ると頭らしきところ、肩・尻・足らしきところが見えてくる。万歳をした格好で上の蛇に頭を咥えられてぶら下がっている。右足もかすかに見て取れる。その他の部分は上から降りてきた蛇に覆い隠されて見えない。(逆さに吊るされて下の方に顔を見せているようにも見えるが、もう少し高解像度の画像で見ないと確認できない。)
この胎児に見える部分、同時に男根から噴出した精液にも見える。大量の精子(種)を畑にばらまけとの暗示か。
情け容赦のない露骨な表現である。人間の描いた絵ではない。
蛇神は空から降りてきて種まく人に絡みつく。その他地上にもいるやつも含めてあらゆる方向から男に喰い付いている。胎児にさえ喰い付く蛇神もいる。男の右手だけでなく両足も大蛇に咥えこまれている。
画面下方に正面を向いた蛇が誇らしげな顔を並べている。
ボストンの物と真の画題「人間は蛇神の食糧に過ぎない。俺たちが喰った分は種をまいて増産して補充しておけよ。」とのメッセージは同じであった。
ただ表現方法がこんなに違うとは思ってもみなかった。隠し絵部分で全く同じところが無いのだ。人間の描いたものなら同画題の二作品を、時間差で描くとしても同じ描き方でより洗練されたものにして行くだろう。男の足が大股になっただけではない。この絵では蛇神の配置も死体の置き方も、男根も精液も、両手先の描き方も全てが違う。そしてその全ての画像が蛇に見えると同時にその他の物にも見え、小さく見ても大きく見ても形を成しているという表現である。一体どんなコンピュータソフトを使ったらこんな風に描けるのだろうか。