観る者を惹きつけ、感動をもたらし、傾倒させて、その実深い所でマインドコントロールの魔の手を伸ばして来る。美術館にさも大事そうに丁寧に陳列し、高い入館料を取って管理している物は、実は人間を家畜としてコントロールする為の洗脳装置のひとつ。
名画には本当に感心させられる。色や形に魅力を感じ、全体の雰囲気に感じ入り、虜にさせられる物が多い。僕自身も、高校時代図書館の名画図録や、実際の美術館で観た作品に魅了され、自ら美術系の大学に入ったほどだ。
ただ最近はネットで高画質画像が手に入り、画像を明るくしたり拡大縮小したりが自由にできるようになって初めてそれら名画の中にあるのは感動させる物だけでは無い事に気付いた。おかしな隠し絵が含まれていた。むしろそのおかしな部分を鑑賞者の深層心理に埋め込むために、感動的な一見素晴らしい表現がされている事に気付いた。
テレビの美術鑑賞番組や、図録の解説は大抵皮相な部分が良いとしか言ってない。隠された物に言及する解説者は一人もいない。
一見魅力的ではあるが、実は全く別の物が描かれている(時には残酷なひどい絵であったりする)例を掲げる。
ヨハネス・フェルメール 「真珠の耳飾りの少女」 1665年頃 マウリッツハイス美術館(オランダ・ハーグ)
若くて美しい少女、パッチリとした目と赤く濡れた唇が魅力的。肌の張りもあり、誰もが惹きつけられるだろう。
この絵の背景の暗い部分を、明るくしてみると、こんな物が見えて来る。違うと言う人もいるだろうが、少なくとも時間を掛けてじっくり見続けた結果、僕にはこのイラストのように見えた。
背後に化け物のように巨大な爬虫類の顔がある。その口に咥えられているのは人間の下半身。恐らくこの少女の下半身がこの怪物の口に咥えられている。少女の唇が真っ赤なのは、血反吐を吐いているからではないか。巨大な化け物にこの少女は喰われている。
ピエール・オーギュスト・ルノワール 「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」(可愛いイレーヌ) 1880年 ファンデーションEGピエールコレクション
フランスの美少女。栗色の髪が長く魅力的だ。椅子に座って庭の樹の前にいるのだろうか。頭に青い魚の髪飾りをしているのも可愛い。
背後の暗い樹の中に、大蛇が見える。首をもたげてのたくっている。その口には人間の頭が咥えられているのか。
スカートの形に違和感を覚えたが、良く見ると小さめの人間が積み重なっている。この山積みの人間たちを後ろの大蛇の食糧であるのだろう。蛇神の生贄と言ってもよい。
少女自身も手の指が三本しか無いようで、爬虫類の仲間らしい。唇の赤さは食べた人間の血か。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「ジョコンダ夫人」または「モナリザ」 1503~1519年 ルーブル美術館
ルーブルの至宝として昔から見ているので、おかしな所など無いと言う人が多いだろうか。いやむしろあまりにも有名なので、個人的には、なぜ肩がこんなに下がっているのか、なぜ眉毛が無いのか、なぜ背景が荒野なのか、なぜ右手人差し指の輪郭が描き損じのように二重になっているのか、等の疑問を昔から思っていた。
この婦人は身体が肩、首、胴で切断されている。だから手の位置が下にずれているし、首が上方左にずれている。背後の窓枠右と左に円柱があり、その基部が丸くなっているが実はそれはそうではなく、背後にいる巨大な爬虫類の目である。そいつが大口を開けて婦人を呑み込もうとしている。
上方からも巨大な爬虫類が降りて来ていて、婦人の手の中や下半身に集められた人間たちを喰おうとしている。
クロード・モネ 「散歩、日傘を差す女」 1875年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
爽やかな春風が吹く丘の上に婦人と子供がたたずんでいる。モネの婦人と子供だったか。顔が逆光で見にくいが背後の白い雲と、風になびく婦人の白い服、足元の新緑の緑が爽やかである。
空に浮かぶ白い雲を、全体的に大雑把に見る、目を細めて見る。するとこんなイラストのような形が見えて来る。巨大怪獣ゴジラか。口に人間を咥えている。婦人の下半身がちょうどそこに位置していて、それは人間の積み重なった物であるらしい。人間たちは足が途中から輪切りにされていて、血が滴っている。婦人の影に見えるのはその血であるらしい。
アルブレヒト・デューラー 「自画像」 1500年 アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)
厳格なドイツ人であるデューラーの自画像。厳しい空気感が伝わってくる。しかし画面が暗すぎて良く見えない。
画像を明るく変換して、コントラストを強めれば、また別の物が見えて来る。この世の物とも思えない、巨大な爬虫類の顔である。その顔は二つあるようで、上方にあるのがデューラーの頭に喰い付こうとしている物。もう一つはさらに大きい。画面全体で表される巨大な顔。肩口にある服の切れ込みはそいつの目である。
デューラーは手の内、胸の前に小さな人間を数体持ち、背後の爬虫類型の神に喰わせているらしい。
エドガー・ドガ 「赤い衣装の三人の踊り子」 1896年 大原美術館(日本)
若い踊り子が舞台袖で出番を待っているのか。不安な気持ちが周りの青黒い部分で表されている。内面の不安がよく出ている。
背景の青黒い部分を明るくしてみる。すると踊り子たち三人を口に入れようとしている巨大な蛇が見えて来た。しかもこの蛇は三人の周りを胴体でぐるりと取り囲んでいる。
「神」の本当の姿は、こんな地球の蛇に似た姿なのだ。
ミケランジェロ・ブオナローティ 「アダムの創造」 1508~12年 システィーナ礼拝堂天井画(ヴァチカン)
あまりにも有名なミケランジェロのアダムの絵。神の手先から産まれ出た瞬間であるらしい。神の手から産まれたのならへそがあるのはおかしい、とか言われるがそれにしても筋肉隆々のたくましい身体が眩しい。
良く見るとここは石の台の上である。生贄の石の祭壇と言える所かもしれない。神の手で産まれた、と言うよりも、これから神に喰われる場所にいるようだ。首、手、足を良く見れば千切れているのを無理やりくっつけているように見えなくもない。石の上のアダムの影に見える黒い部分は血かもしれない。
石の祭壇の上にはこの人間の他にも人間が寝かされている。その上を大蛇が這いずっていたりする。
ラファエロ・サンティ 「カウパーの小聖母」 1505年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー
遠目には慈愛に満ちた表情の聖母マリアと、可愛らしい幼子イエス。
イエスは身体が上半身、下半身で不自然に分断されている。普通腰の位置がもう少し上で奥まっていなければならない。マリアは手でこの子供の下半身を支え、首に巻いた半透明の布で子供の上半身を巻いて支えているようだ。つまりこの子はイエスでも何でもなく、背後に見える巨大な爬虫類神に捧げる食糧としての肉。既に寸断されている。
マリアの膝の上にも人間が数体重ねられている。ダヴィンチの「モナリザ」もこんな感じで膝の上に生贄の肉を置いていたらしい。
フィンセント・ファン・ゴッホ 「星月夜」 1889年6月 ニューヨーク近代美術館
ゴッホの情熱的な描き方を具現化したようなこの絵。自分には夜空にきらめく星々がこのように見えるのです、と後の画家たちに絵のすばらしさを教えた。絵とは本来このくらい自由であるべきなのかもしれない。
渦巻く星々の形状の一部を部分図にして見る。するとここに描かれているのは情念のうねりとかではなく、具体的な人間の形であった。巨大な蛇型生命体に巻き込まれ、喰われている。
結局どの名画でも、隠された主題は一つ。巨大な蛇型生命体が「神」として存在し、人間を食料としている真実を伝えていた。