ピーテル・ブリューゲルは、僕の高校時代に美術に関心を持ち始めたきっかけになった画家なので少し時間を掛けて細かい所まで調べて見る事にした。しかし実際にこの作業をしてみるとこの絵は細かい所まで実に描き込まれており、絵筆の跡も絵具の単色の溜まりさえも見つけることが出来ず、細かく見れば見るほどミクロの世界に入り込むようで、まるで絵では無く現実世界ではないかと思うほどであった。
ピーテル・ブリューゲル(子) 「農民の婚宴」 東京富士美術館
同じ画題の絵がウィーン美術史美術館にある。それは1568年 同名の父の作品と言われる。この絵は長男のブリューゲルが父のブリューゲルの作品を模写したとされている。大きさも父の物は114×163cmなのに対してこの作品は73×104cmと一回り小さい。模写は5点ありその内の1点だそうだ(Google Arts&Culutureによれば)。本当だろうか。僕に言わせればウィーンの父の作品よりもこれの方がこのブログの趣旨をよく表していると思える。すなわち人食い蛇が人間を喰い、人間の増産を勧める為の絵である事がより分かり易い。父の作品の模写にしては絵の隅々までしっかりとしたコンセプトが貫かれている。父の作品かこの作品かはどうでも良いがこの絵は同一の作者がウィーンの絵の習作として描かれた物のように思える。
野外で結婚披露宴が営まれている。近親者以外にも招待客が大勢来ており、プディング等の御馳走が配られている。ポットにビールを注いでいる男も左に描かれている。花嫁は中央奥の垂れ幕の前でしおらしくしている。花婿は・・・・どこにいるのか分からない。当時の習慣として花婿は客を持て成さなければならないので、プディングを配っている茶色い服の男かビールを注いでいる男かまたはここには来ていないともされている。
ブリューゲルは農民画家とも言われ、農民に愛情を持って絵に描いた様な事を言う人がいるらしいが、この絵を見る限り作者は「農民は馬鹿だ」と思っている事が伺える。絵の中の農民たちの馬鹿面はどうだろう。花嫁も不細工だし、皆てんでバラバラに意地汚く料理を喰っている。右の方ではささやき合う怪しげな男女。何と言っても手前のプディングを運ぶ二人が馬鹿だ。戸板に棒を渡して料理を運んでいるのだがそのバランスの悪い棒の当て方。たぶん一皿を男が取り上げたとたんにこの戸板はひっくり返るのではないか。
招待客(上左)も料理を運ぶ男(上真ん中)も手前の子供(上右)も、皆なんて馬鹿面なんだろう。まるで知能が無なさそうである。
花嫁は背後の巨大な蛇に呑み込まれそうである。髪の毛も蛇で出来ているらしい。またその上半身の中にM字開脚した女の姿が隠れている事を発見した。
プディングを配る男(花嫁の視線がこの男に向いているので花婿はこの初老の男かもしれない)。皿の中に入っている物をよく見ると(長い事見続けてやっと見えて来たが)小さな人間である。四つん這いのようになって入っている。この婚礼の席で食事をしているのは人間よりも遥かに大きな巨人たちらしい。しかも喰われているのは人間。男の口先から何か飛び出している。テーブルの上のチーズとパンのような物にも人間の形が見て取れる。テーブルの下の暗い部分にはおこぼれの人肉を狙う蛇たちがいると思える。
この男の身体デッサンが狂っている。腰が後ろに膨らみすぎ、膝小僧の位置が高すぎ、腕が太すぎる。調べて見るとこの身体は二体ほどの人間の身体の組み立てで出来ている事が分かった。右腕は上半身を作る人間の左足で、両足は下半身を作る人間の腕である。腰の辺りで二人の身体が重なっているから厚くなっている。手と足が逆さまになっているこんな表現はよく見かける。ルノワールの「舟遊びをする人々」の人物もこうであった。「人間の眼で見ている事は逆さまなんだよ。」と言われているようだ。
後ろのテーブルには食糧としての人間がたくさん置かれている。
この男も身体が変である。上半身が大きすぎ、頭が小さすぎる。これも上下二体の人間で出来ている。上体の人の尻の割れ目から頭が出ている。これは出産を表しているらしい。
楽器を演奏することを忘れている男。花嫁の方を見て欲情しているのではないか。股間のプロテクターと言うのか、当て具が異様に尖っている。バグパイプの袋も睾丸の様だ。下卑た口元には小さな人間が咥えられている。上半身は逆さになった人間であり、その足が男の腕になっている。イラストで黄色くした部分は全て人間である。
隠し絵の人間は、同時に蛇の集まりにも見える。例えば腕と見せた足は蛇の連続で出来ており、その先端の蛇の口先には人間が咥えられている。人間でもあり蛇でもあると言う表現は、人間と言うのは蛇の遺伝子をも持っている事実を伝えているのではないか。太古の昔、蛇型宇宙人が地球にやってきてそこにいた猿と自らの遺伝子を混ぜて人間を創って家畜とした事を教えているのではないか。蛇の口先には必ず小さな人間が描かれるが、これも蛇が人間を食糧としている事を教えているようである。
ビールを注ぐ男。男の腹の所にあるのは壺の胴体部分であるらしいが、何かおかしい。この肌色の物は人間の尻である。上半身が別の人間の下半身であるし、口から何か喰っている物が飛び出している。左足の上肢が大きな男性器に見えるのは気のせいか。
地べたに座り込んで空の皿を舐める子供。よく見ると舐めているのは自分の指ではなく、小さな人間の足である。ひざ元のチーズも人間で、身体も大小の人間で出来ている。腰のナイフで人間を刻んで喰っているらしい。
全体のイラスト。神話時代、巨人たちが小さな人間を食卓テーブルに乗せて宴を催している図である。こうしてイラスト化して行く内にさらに怪しげな隠し絵が見え始める。花嫁の背後に大股開きの女が見える。その左横に見えるのは胎児か。右の方にはセックスをしているらしい人間が二組ほど見える。画面上方から降りて来る巨大蛇神が見え出す。
左元絵。右蛇神のイラスト。小さな人間たちを喰っている巨人族たちもこの巨大蛇に喰われる。
・・・・生きて行く事は喰って行く事である。巨大蛇神たちも有機物を食糧としている限り他の生き物を殺して喰って行くしかないのである。現代の人間は家畜を残虐に殺して喰っている事を自覚していない。家畜を切り刻んで元の形が分からないようにして火を通して調理して喰うがやっている事はこの蛇どもと同じである。生き物を殺して喰う事でしか生きて行けないのは同じである・・・・
と人間のように暖かい血が流れていない蛇どもは名画を通して言いたいようであるがどうだろう。
画面を大きく見るとまた別の絵が見えて来る。眼を細めたりして時間を掛けて捉えた隠し絵がこれである。左は男女交合図。女(赤)が四つん這いで尻をこちらに向けている。その背後から男(青)が覆いかぶさるようにしている。花嫁がちょうど女の性器の位置にある。
右は大開脚の出産図。プディング(子供)が女性器からたくさん出て来ている。
人間をいくらたくさん殺して喰っても、セックスさせ、子供をたくさん産ませれば元通りに増えるから問題ないのだと言っているかのようである。
最期に気になるのがここの画像である。画面左下隅のポットの存在が怪しい。男が大瓶から子壺にビールを分け入れている図だが、かごの中に乱雑にほうり込まれた子壺を前面の目立つ所に配置すると言う不自然さがある。
拡大して精査すると右のイラストのように見えた。壺は人間で出来ている。その口から赤ん坊の頭が覗いている(口の中の暗い部分は凹凸が逆である。フェルメールの「牛乳を注ぐ女」のミルクポットの口と同じ表現である)。子壺の人間は尻を壺の口の方に向けて赤ん坊を産んでいるように見える。右の瓶には人間がいっぱい入っている。瓶の下の地面は人間の血で真っ赤だ。ビールを注いでいる男の持つ瓶からは蛇が飛び出し、子壺の赤ん坊に注がれる。
男は猿の赤ん坊に蛇の遺伝子を注いで、人間を創っているのではないか。画面の一番目立つ部分に描かれているのは作者にとって重大なテーマであってもおかしくない。人間はこうして創られたと暗示しているのではないか。
確かに今の人間には爬虫類脳があり、その発生時子宮内で爬虫類を経由して人間の赤ん坊の形になる。人間に体毛が猿ほど多くないのは蛇の遺伝子が混ざっているからだと思えなくもない。さらに人間は口から肛門までの蛇であり、その外側に大きな運動機関である手足が付いているのだと思えなくもない。その手足に付いた肉こそ蛇神が求めた食糧なのかもしれない。
人間は本当の事を全く知らない「馬鹿な農民」なのだ。