畑で農作物を育てる際にはたくさんの生物の命を奪わなくてはならない。今日もブロッコリーについたアオムシ等を薬殺し、トマトの枯れ木の下にいたネズミの赤ん坊数匹を耕耘機の刃の回転で殺してきた。その他アブラムシや菌類等無数の殺害をしなければ人間の食糧は作れない。今日のネズミの赤ちゃんは体毛の無い皮膚を見ると人間の胎児の様であり殺すのに忍びなかった。しかしここで殺しとかないとニンジンが喰われると思い殺した。
有機物を食糧とする人間は有機物を摂取するが、その有機物を横取りする生物を殺すかまたは排除しなければ確保できない。人間と言う有機物を食糧とする生命体がいても何ら不思議ではない。彼らも人間がよく育つようによく繁殖するように他の危険生物から守っているかもしれない。
フィンセント・ファン・ゴッホ 「夜のプロヴァンスの田舎道」 1890年 クレラー・ミュラー美術館(オランダ)
今、東京の美術館にこの作品が来ているようだ。ネットで見ると色合いが様々の物があり、どれが本当か分からないが僕の分析にはあまり関係ない。
ゴッホの糸杉の絵には彼の燃え上がる情念のような物がうかがえて昔から好きだった。短時間に、色を混ぜ合わせないで、筆跡も隠さずに描く彼の描き方に心を揺さぶられるような気がした。この絵でも真ん中に糸杉が大きく描かれ、夜空に三日月が描かれている。左は金星だと解説される(Wikipedia)。麦畑の手前の道には農作業の帰りと思われる農夫二人、奥には走る馬車と家が描かれている。夕闇が迫るころ、家路を急ぐ人々を描いたようだ。
糸杉を中央に置く大胆な構図であり、下半分のバランスが悪い。作者の精神は夜を前にして不安があるのではないか。夜中に迫ってくる何かを恐れて急いで家に帰らなければいけないような強迫観念があるのではないか。
左からWikipediaから採った物・Google Arts&Cultureから採った物・彩度を極端に落とす加工をした物・さらにぼかしを入れた物。
何かが見えて来ないだろうか。僕には空から降りて来る巨大な爬虫類の頭が上半分の所に見える。糸杉も緑色をした蛇が何匹も重なって上から降りて来ているように見える。下半分の麦畑や道の部分には蛇に喰われる生贄の人間が折り重なって置いてあるのだろう。
糸杉の根元部分。幹が二本あるが、これは人間の足ではないか。イラストのように、蛇型生命体が上から降りて来て人間を呑み込んでいるのではないか。
樹の幹。赤い血の色である。この足より上は巨大蛇に呑まれてしまっているのかもしれない。前のイラストとは違ってくるが、緑色部分は巨大蛇の頭部とも見える。その両目らしき部分もある。
麦畑左側部分。ぼかした方が捉え易いと思ってそうしてみた。こんなイラストのような形が見えて来た。性行為をしながら積み重なった裸の人間たちである。
全体図の下方、右寄りの部分。僕にはこんな風に見えた。
糸杉を含めて上方から巨大な蛇が三匹ほど降りて来て、地面に散らばった無数の人間たちを喰っている。生贄の人間たちは性行為をしながら、尻から子供を産みながら喰われている。
全体図で見てもこんな感じである。
分かり易く単純化するとこうなる。画面いっぱいに蛇神の頭。地面の人間を口にしている。その蛇神の頭の上に少し小さめな蛇神が垂れて来てやはり人間を喰っている。
彼らも有機物からなる有機生命体なのだろう。だから有機物を摂取する事でしか生きられない。ただし人間のように自分の行為を隠さない。人間のように家畜を殺し、害虫を殺しながら食い物を確保している事に目を背けていない。例えば「豚さんに感謝」とか言ってごまかしながらと殺・解体・調理して食べる事は無い。彼らは生のままの血と肉を好み、自らの食事風景をこんな風に名画の隠し絵として表している。
渦巻く夜空の中にこんな絵が見える。女(金星を頭としている)の背後から性行為をする男。二人は性行為をすると同時に子供を産み落としている。
ただこの場合、男の体内にある三日月が何を意味するのかが分からない。この三日月は別の見方をした時の何かの部分だろうか。
この三日月と金星は生まれ出る子供或いは胎児として見られるのだろうか。
今回見つけられた隠し絵はこれくらいだが、またいつか見直しすると別の物が見えて来るかも知れない。