アブラムシが全滅させられない。ソラマメの新芽の小さな隙間に入り込んで生き残っているヤツがかなりいる。今日は手動スプレーに接触性農薬を入れて一匹一匹を確認しながら散布して来た。しかしこいつらはたまに羽の生えた個体を発生させて飛んで移るという離れ業を持っていて中々手強い。定期的に殺戮作業を繰り返すしかない。
蛇神による大量殺戮の名画をまた見つけた。
ポール・セザンヌ 「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」 1904~1906年頃 ブリジストン美術館
セザンヌがよく描いた山の風景画で、一見何の違和感も感じられない作品である。木の間から見える山を発色の良い色の面でかたどっている。自然を円筒・球・円錐で分解し再構築したとかなんとか、物の本には解説されているが実際にはどうなんだろう。
実は僕はセザンヌがあまり好きではない。彼の描く人物や器物が変形されて不細工になっているのがちょっと受け入れられない。このブログで過去調べた限りセザンヌは単なるエロおやじで、絵の中に男女の生殖器を描き込んでいるはったり屋であった。Wikipediaで見る彼の写真は、いかにもいじめられっ子のような小心そうな表情で写っている。
この絵全体をいきなりイラスト化してみた。死体の山である。人間の身体があると思って見ると確実にそれがあった。蛇が描き込まれていると思って見るとそれもあった。木々の中に人体も大蛇も同時に見て取れるような表現がしてある。人間が大蛇に襲われ喰われているようにも見て取れる。空からは巨大な蛇が無数に降りて来ている。生贄の為の人肉が山になっているところを、自然の山に見せかけてしかもセザンヌのタッチで変換して具現化してある。
目を薄目にして大きく見れば半透明の蛇神が見える。小さく一人の人間を喰う蛇から数体の人間を喰う蛇、大きくまとめて全体の人間を呑み込む蛇までが見える。
またこの絵にはこんな画像も見て採れる。人間の女が子供を出産するシーンである。手前に横たわる裸の女(黄色)は両足を広げており、股の間から赤ん坊(茶色)を取り上げてている。赤ん坊を高々と持ち上げている人間(青色)がかろうじて見える(非常に判別しにくいが、画質を変えたりしてじっくり観察すると見えた)。
母親は顔半分がこちらに見えていてその肌色の顔がリアルだが、下半身に行くに従って黒ずんで来る。赤ん坊はほとんど真っ黒で何処が目で何処が口か分からない。足も不鮮明である。産着のような物に包れてはいるがどうも蛇に巻き付かれて死んでいるのではないか。このどす黒い色はそんな死産を彷彿とさせる。
ヴィクトワール山の中に男性器が突き出ている。やはりセザンヌ流のエロ画像が入っていた。どこかに女性器も隠れているはずだがそれはもういい。これは生殖・出産・食糧増産の象徴としての意味を持たせているのかもしれない。
母親の左太ももの辺りの部分図。男が数人うなだれている様子が描かれている(上図左)。大蛇に襲われてぐったりしているというよりはこの死産を悲しんでいるようにも見える。
右手中景の木立の中にもうなだれた人間たちが何人もいる。皆黒い赤ん坊から目を背けるようにしているようである。
城の前にいる人間も同様。胸に手を当てているように見える。
城の右端にある黒くて丸い物は背中を丸めた人間で、この男は頭を左に向けている。大きな母親の右手の上にいる。男は手を母親の右手に当て、彼女を慰めるかのようだ。
この表現は何を意味しているのだろうか。
蛇神が人間を、赤ん坊までを殺し尽くし、喰い尽くすというのか。人間には絶望しか与えないというのか。
アブラムシのように最後の一匹まで殺されるのが運命なのか。
しかしアブラムシが突如羽を持つ個体を発生させて生き延び、別の場所でどんどん増えてコロニーを作るように、人間も必ず生き残ってまた繁栄する。