ドミニク・アングル 「ドーソンヴィル伯爵夫人」 1845年 ニューヨーク フリックコレクション
まるで写真のように精緻に描かれた、美しい婦人の絵である。顔や腕の白さ・ドレスの色の美しさ等に目を奪われてこの絵の不自然な所を見逃してしまいそうになる。
画面を明るくしてみると、いろいろと気付く事がある。あちこちに大きな蛇がいるのだ。鏡に映った夫人の髪の中・チェストの上(花のようだが実は大蛇の頭)・下方のソファー(右下のも、左奥のも蛇の頭が連結している)・背後の壁・夫人のドレス・夫人自身もあらゆる部分が蛇で出来ているのが判る。
ただ今回注目したいのは夫人の手である。両手共に変に前方に突き出ている。また下がっている。
上図左が元の絵部分拡大図。この左手を自分で真似してみたが肩が脱臼しそうになって出来ない。この右手も上腕の延長線が肩に繋がらない。ずれている。
上図右で正しく手の位置を修正してみた。黒線で囲った部分をコピーして右上にずらしてペースト。違和感のないように頬や背中等を修正してみた。これの方が自然なポーズだろう。(元の手の位置を白線で表してある。)いやもう少しずれを大きくしても良かったかもしれない。
ドレスの左肩の所に大蛇の顔があり、その前の大蛇を呑んでおり、前の大蛇が夫人の腕を咥えている。手のずれ幅はこの大蛇の頭一つ分くらいである。この事は、夫人の腕が切断されており、肩の大蛇がそれを咥えることで繋がって見えると言う事ではないか。
先日観たゴッホの「ジャガイモを食べる人々」の右端の老婆。やはり左腕がやたら長かった。この人の肩にも大蛇が張り付いており、千切れた左腕を口で咥えて下げている。
手が長いので有名なセザンヌの「赤いチョッキの少年」(1890~1895年スイス・ビュールレコレクション)。・・・・「少年の手が異常に長いのは、画面全体を美しくするために必要なことであり、セザンヌは写真のような実体の模写ではなく、人間の心を通して見える光景を優先した。人間の内面を具現化した近代絵画の父ならではの表現である。」・・・・とか思っていたがとんでもない。
イラスト化したが、そのままでも少年の右肩に大蛇が張り付いているのが見える。腕を咥えているが、この腕も千切られて、切断面に大蛇が入り込んだ分だけ下に長くなっているにすぎない。
この世界の支配者である蛇神が人間を食糧としていることを、こんな形で画家たちに示させているのだろう。
もう一つ気になったのがこの右下のソファーの部分。
黄色い蛇の口から赤い蛇。白い蛇の口からやはり赤い蛇。赤い蛇の口から黄色いイカの足にも見える小蛇の集合体。その黄色い小蛇たちが集団で咥えているのが白い物体(ほんのわずかしか見えてないが)。ソファーのひじ掛けを模しているが肌色である。僕にはこの肌色の物が夫人の足に思えてならない。大蛇の連結が二つあるから二本の足かもしれない。
ドレスのスカート部分の皺をじっと見ていると、茶色線で表したこんな形で片足が無いように思えた。ドガの「ベレッリ家の肖像」やマネの「休息」を思い出したからだ。
あるいは夫人の足は両方とも無く、右下で喰われており、足の代わりに巨大な蛇が何匹も下から上がってきて足の代わりをしているかもしれない。皺の中に大蛇の眼も見えるから。
蛇型爬虫類人どもにとってこういう表現は残酷でも何でも無いのだろう。人間が家畜の牛・豚・鶏を屠殺解体しているのと同じ感覚だろう。
それでは何故こういう隠し絵を絵画に入れているのだろうか。
人間に恐怖心を起こさせるため? 実際に喰うときにあきらめの感情を起こさせるためのサブリミナル効果を狙っている?
しかし人間に気付かれないように隠し絵にしても、僕のように気付く人間がいる訳だし、むしろ気付かせるようにしているものとも考えられる。彼らは自分たちの生存を危うくするにもかかわらず、自分たちの姿を画家に描かせている。