名画の隠し絵

美術館にある名画には隠し絵がある。それは巨大な蛇の形をしており、人間を喰う姿が絵になっている。

マネ 「草上の昼食」 洗脳された人間にはこの隠し絵が見えない。

サロンに落選したマネの作品、「草上の昼食」は当初、「水浴」と言う題だったそうだ。画題が何にしろ、裸の女を伴い、森の中で昼食を採る紳士の図など、世間が受け入れるはずが無いだろう。商売女を連れて森の中に入るなど実際にあったのかどうかも分からない。マネは何のためにこんな不道徳な、あり得ない画題を選んだのか。そして現在この絵が世間に受け入れられているのはどうしてか。

エドゥアール・マネ 「草上の昼食」 1862~63年 オルセー美術館(パリ)

暗くしてごまかしてある部分も、ソフトで明るくしてみれば明確になる。

男が二人向き合って座っている。裸の女が一人の男の横にいる。娼婦だろうか。もう一人の男はコートを着るほどなのに女は裸で寒く無いのだろうか。青い布が尻の下にあるが女の衣服は画面左手前のフルーツバスケットのある辺りにまとめて置いてあるようだ。

女の一人は奥の泉で水浴している。石鹸もタオルもそこに見えず、素っ裸でもない。湯あみ着なのか薄い布を纏ったまま水を浴びている。

画面左手前の昼食の散乱具合は異様だ。女の衣服らしきもの、バスケットと麦わら帽子、フルーツにパン、酒瓶と思われる物もある。何故こんなに散乱しているのか。バスケットを蹴飛ばして、衣服の上を転げまわってもこんな形にはならないだろう。乱れつつも山盛りにされているのがおかしい。

この女の身体、あり得ない形をとっている。左足は足裏を見せて寝かせてあるらしいが、足の付け根とうまく繋がらない。もっと膝が立ってなければこの形にはならない。左手は全く見えないが、尻の後ろあたりで支えなければ姿勢をこんなに真っ直ぐ維持できないのではないか。(尻の辺りに手指が見えるが、これは横の男の手先と思われる。少し手が長すぎるが・・・・。)

首を強くこちらにねじっており、少しねじりすぎの感がある。首にしわが二本も出ている。右手で首のねじれを押さえているようだ。

右手の中に小さな人間が掴まれている。中指と小指、人差し指ではない。

唇が赤く塗れていて、頬の左側が血が付いたように汚れている。

奥の女も手足が胴体とうまく繋がってない。異様に大きな尻は大蛇であるようだ。二匹ほどの大蛇が女の手足や首を咥えて立ち上がっている。

女の首の描写、首が切られてそこに置かれた感じに描かれている。首から大量の血が流れており、女の顔にも血が付いて汚れている。

とにかく画面左下の、この部分がおかしい。

裸の女の尻の下あたりを見ると、瓶の横に人間の足首が転がっている。切断面をこちら側に向けている。瓶の蓋が右側にあるのではない。瓶の口は反対側にある。女の左足だろうか。

尻の下に人間の手らしき物も見える。

この左側に見える麦わら帽子は、良く見ると麦わら帽子ではない。人間の片足に黒や青のリボンを巻き付けて巧みに帽子っぽく見せた物だ。誰の足だろうか。

いろんな物が散乱した様子で描かれたこの辺り、何度も見直して、描き直してその結果、こんなイラストになった。人間の千切れた手、足、首等が山積みにされている。

絵に描かれた女と男四人分の手、足、首かもしれない。どこかから調達して来た別の人間たちの手、足、首かもしれない。どちらにしても画面最下端に描かれた物は、生贄の祭壇に捧げられた生肉と言う事になる。

地球を支配している「神」の、真の姿はこんな蛇の頭を持っており、名画の画面いっぱいに隠れている。上からやって来て一番下の生贄を喰う。

見方を変えれば、こんな風にも見える。ここでは「神」は二匹ほどいる。

遠目に見るとこんな風に見えたりもする。

いずれにしても「神」が人間を家畜として地球上で飼い、食糧として喰う事が説明されている。

自分たちが普段生きていて、仕事が辛い・人生が苦しい・病気が怖いとか思うのだったら、こいつらのせいだろう。老いて涙もろくなってきたと思うならば、こいつらに逆らえない人生が悲しいからだ。

美術館に行けばこんな名画だらけであり、人食いの化け物の絵を大事に保管させる者がいまだにいる。産まれた時から洗脳されている人間には気付くことが出来ない。ただ穴のあくほど名画を見続ければ、真実の隠し絵を見つけることが出来るから一歩前進だ。

 

ドガ 「二人の踊り子」 「神」の本来の姿はこんなにもおぞましい

ドガの絵には色々と驚かされる事が多い。「神」の食事の仕方の残虐性や、「神」の姿そのものもドガの絵にははっきりと見える。

エドガー・ドガ 「舞台上の二人の踊り子」 1874年 コートールド・ギャラリー(ロンドン)

舞台袖から二人の踊り子の練習を見学しているのだろうか。床に引かれた二本の線は舞台装置を動かす為のレールなのか。それがこの角度で見えると言う事は、正面ではなく側面から覗き見ていると言う事らしい。左端にドレスの一部が見えている第三の踊り子もいるようだ。

ドガと言えば踊り子(バレリーナ)の絵だが、どの娘もあまり美人ではない。ウソでも良いからもう少し美人に描いてあげれば良いのにと思う。

この二人は唇を異様に赤くし、突き出した顔で描かれている。目の辺りも赤い。

首に巻かれた布が首の切断面にも見える。

中央のダンサー。腹から上と下の足がうまく繋がってない。左足をこんな風に真横に回して前に出すなんてことが実際に出来るのだろうか。

腹から上の身体と、二本の足が分断されている。

向かって右側のダンサーも同様に、足が繋がってない。右足を真横に曲げ、左足を斜め前に突き出すには左足の膝を深く曲げなければ出来ないと思う。両手も取って付けたような感じがする。腹の辺りから広がる赤黒い部分は血か。腹で切断されているのか。

画面上部を良く見ると、背後の舞台装置が巨大爬虫類の頭になっている。二人のダンサーの腰を口で咥えて噛み切っているのではないか。だから二人とも足が変な方向に向いているのだ。

右のダンサーには別の巨大爬虫類が噛み付いている。

こんなにはっきりと巨大爬虫類の顔が描かれているのは珍しいのではないか。これが「神」の本来の姿。「神」はミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画に描いた白髪の爺さんではなく、こんなおぞましい蛇の姿をしているのだ。

彼らも生きるために人間を定期的に喰っている。生贄として捧げものとして用意された人間を喰っている。その真実をこんな形で美術館の絵画の中に隠し絵として語っている。大抵の人間は気付かない。

全体図。

コントラストを強めると、床に染みた血の赤色が見える。ここは生贄の祭壇なのだ。

信じたくないが、これがこの世の真実。これに一生気付かず、ひたすら子孫繁栄に、子作りに励む一生も良いが、気付いてしまったら受け入れるしかない。他の生命体に援助を頼むか、戦うか、あきらめてしまうかの選択をしないといけない。僕はこの秘密を世間にばらす事で奴らの力をそぐ事になると思っている。

 

ルノワール 「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」 神の食事会

ルノワールの代表作と言えばこれではないだろうか。大きさは131センチ×175cm。

ピエール・オーギュスト・ルノワール 「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」 1876年 オルセー美術館(パリ)

モンマルトルにあるダンスホールに人々が集まり、踊っている。屋外であり、木漏れ日が人々の身体に点々と落ちている。良く晴れた日であり、お酒も入って皆楽しく過ごしている様子が描かれている。

ただルノワールの絵は時々ホラー映画並みの奇怪な部分が見狩られるので注意してもらいたい。

画面中央の姉妹、顔を拡大しコントラストを強めると、口の周りが赤く汚れている。唇の間に何かが挟まっているようだ。目の周りが赤くはれぼったいのは酒が入っているからか。

その他主要人物たちの顔を拡大してみると、皆口が赤い。口から赤い物を出している者もいる。赤ワインを飲んだと言うよりも、赤い生肉を喰っているように見える。

上図左。このカンカン帽の男の手は口に当てられているが、なぜか指二本だけ色が違う。小さな人間を口に入れる所だろうか。

上図真ん中。男の肩にこぼれ日が当たっているが、それがまるで死神の顔のようになっている。

上図右。丸い帽子をかぶった女性の後ろ姿らしいが、その帽子の色が異様に濃い。多分全体の中でこの濃い色は別の物を表現しているに違いない。

ダンスホールなんだから男女が抱き合って踊るのは当然なのだが、皆くっ付きすぎ、情熱的すぎないか。

画面右奥の表現など、もうどうなっているのか分からない。男女が顔をくっつけ合っているのだろうか。

中央の姉妹の上奥の表現。色と形が入り混じって何が何だか分からない。人間とは別の物が見えて来そうだ。

画面を左、真ん中、右の三つに分解して観る。これは左部分。紺色の所と地面の水色の部分で輪郭線が出来、そこにこんな巨大な蛇の形が見えて来た。踊る男の腰の辺りと、少女に向き合う青年の顔が巨大蛇の両目になると思う。少女の身体と、ベンチの背もたれに別の人間(生贄の)がいる。蛇の形をした「神」に喰われている。

真ん中部分。事物の輪郭線を繋いで行くと、そして目を細めてぼやかせて見ると、こんな形で、巨大な蛇型の「神」の姿が見える。イラストで青く囲んだ蛇の頭と、緑で囲んだ蛇の頭が二つ見えたりする。ここは青のだけで良いのかもしれないが、後ろを向いた女の被った濃い紺色の帽子が緑の蛇の目になっている事を説明する為にあえて二匹を描いた。

青い巨大な蛇神の口先には、ベンチの背、女の白いドレス、椅子に座った男の身体があり、喰われる別の人間を表している。

右側部分。ここにも上から降りて来る巨大な蛇神が隠れていて、上のイラストのような形になっている。僕に見えたのはこのイラストの通りだが、別の形に見える人もいるだろう。何通りにも見えるように描かれているからだ。

手前の男たちの身体に別の小さい人間がいて喰われている。

大雑把に見て、巨大な三匹の蛇型の「神」の姿が見える。

見えない人には見えないだろう。絵の中の人物・事物に囚われていてそれから抜け出せない人にはいつまでたっても見えない。物事の味方を180度変えて色と形がそこにあると思って考える事無しに素直な気持ち・無垢な気持ちで見ると見えると思う。

人間と言うものは「神」の食い物にすぎないと、ここでも語られている。

そして地球上の人間牧場を繁殖させる為に、こんな隠し絵も同時に存在する。目を細めてボヤーっと見ると、確かに人間の性行為をしている姿が見える。奥の方に人の目を表す形も見えて来る。椅子に座って背を見せる男の腕は男性器となり、その先にある女の白いドレスは精液、または産まれ出る子供となる。

また、こんな風に見えるのは僕だけだろうか。絵から色を抜いて見ると、黒っぽい女の身体が見え、それに覆いかぶさる黒っぽい男の身体が見える。二人は子作りをしている。「神」に喰われた人間をその分だけ増産しなければいけない。

 

ゴヤ 「マドリード 1805年5月3日」 地上で何が起ころうと「神」にとっては大した事ではない

ゴヤの作品と言えば、「裸のマハ」・「巨人」・「我が子を喰らうサトゥルヌス」その他の宮廷人の肖像画・黒い絵等、多岐にわたっている。そんな中からWikipediaで大きく扱われているこの絵を調べてみた。

フランシスコ・デ・ゴヤ 「マドリード 1808年5月3日」 1841年 プラド美術館

ゴヤ69歳の時の作品である。スペイン独立戦争時、フランス軍によって市民が逆殺された事件に憤慨して描かれたと言う。小山を背にして市民が撃ち殺される様子が描かれている。遠くに宮殿が見える。

一番目立つこの男は両手を上に挙げて無実を訴えるかのようだが、その手の平にイエス・キリストのような聖痕が見える。殉教者の証らしい。

銃を向けられた他の人々は、驚きと恐怖の表情を浮かべている。

皆唇が白いのは血の気が失せているからだろうが、白い物を口に挟んでいるようにも見える。

兵の銃の向こう側で事態を見る人々。罪を着せられなかった市民か。目を覆い、口に手を当てて恐怖を表している。5月初めの夜はスペインでも寒いのだろうか。何だか寒そうである。

ただよく見るとこんな風にも見える。

小さな人間を口に入れて喰っている巨人族たち。左端の人など、口の周りを血で汚しながら喰っている。手前の二人も口から肉を長く垂らして喰っている。

フランス兵は誰一人として市民の方を見ていない。罪の意識があり、命令だから仕方なく銃殺をしている感じが出ている。

官給品の制服や背中に背負った毛布が、一人一人違う色なのはどうしてだろう。特に白い毛布などこの当時あったのか。行軍中でもないのに、完全武装なのはなぜか。

顔が皆おかしな表現で形が取れてない。ゴヤはこんなにデッサン力が無かったのか。それとも画面全体の為にわざと顔をこんな形に変形させたのか。主題を強調する為にここはあえて下手に描いたのか。

兵隊の背負っている毛布は実は手足の千切れた人間の胴体ではないか。もしくは切られて無くとも手足を束ねられて縄で縛られた裸の人間か。この荷物の下を見ると、赤黒い血のシミが見えるのでやはり切られているのか。

行燈の後ろにいる男は、火を灯しているのではなく、大きな黒い蛇に丸呑みされている。

兵士の足元には人間が無数に横たわっている。ここは生贄の祭壇であるらしい。

全体図。少なくとも三匹の巨大な爬虫類が人間を喰いに来ている。宮殿の方から這って来て兵隊を全て丸呑みしている奴と、それをさらに大きく呑み込もうと右上の空から来ている奴、そして左方から地を這って来て横顔を見せている奴。こいつは口を開けて虐殺される市民を喰っている。人を殺す人、殺される人、それら人間の営み全ては最終的に「神」と呼ばれるこの巨大な爬虫類たちに喰われる事で終わる。人間たちはそれに気が付かないまま生まれて生きて死ぬ。

 

ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」

この作品は何度も調べている。ゴーギャンの代表的作品であり、主題がこのブログの主旨と一致しているからだ。139.1cm×374.6cmの大作である。

ポール・ゴーギャン 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」 1897~98年 ボストン美術館

タヒチの人々の死生感、「神」への対処の仕方が表れている。

画面は手前で三つの群像に分かれている。右端は人の出生。若い女性と赤ん坊が描かれる。

真ん中は青年が樹から実を収穫して働いている。左側にその実を食べる子供。盛んに食って働く青年期を表している。

左端には老人。「死」を恐れるかのように顔を手で覆っている。アヒルは「死」の象徴か。隣の息子のような青年に慰められているのか。

もう一度右端に戻って赤ん坊を見る。この子は石の祭壇の上に放置されている。若い女たちが母親であるなら、どうして布で包んで抱いてやるなり出来ないのだろうか。

この子はまるで死体のようだ。上半身・下半身がうまく繋がらないし、首、右手、左足はどうやら胴体に繋がってないようだ。身体の下に見える影は血だまりのようだ。

石の祭壇、または大きな蛇の頭に乗っているように描かれている。

真ん中の青年。マンゴーだろうか、樹の枝も無いのに(左右ににオレンジ色の不思議な葉が見えるが)、ハサミも持たずに収穫している。いや本当に収穫だろうか。

青年の胸の下、手の平、足の甲に聖痕があるように見えて仕方がない。

ポール・ゴーギャン 「黄色いキリスト」 1889年 オルブライト=ノックス美術館(ニューヨーク)

8年ほど前に描いたこの絵のキリストに色遣いや体形がよく似ている。

真ん中の青年はイエス・キリストであり、天の「神」に捧げものをしているのではないか。

座って木の実を食べる子供と、変な形の猫。猫の向こうに見える肌色の塊は何か。所々切断された人体のパーツではないか。切られた断面が赤い。子供が口にしているのもひょっとして小さな人間か。

真ん中の青年が捧げる赤肌色の丸い物はやはり人間? 

左端にいる老婆(だと思うが)。顔の左右や首の辺りを損傷しているのか。赤黒い血が溜まっている。これは単に「死」を恐れて顔を覆っているのではなく、実際に傷つけられているのではないか。何者かによって傷つけれらている真っ最中なのかもしれない。尻の下にある影は血だまりか。

画面左側後ろの「神」の像。右に巫女のような女が直立しているが、左側にある黄色い物は何だろう。暗い穴に吸い込まれる人間にも見えるが、逆に穴から出てくる人間にも見える。

「神」の像は良く観ると明らかに大蛇が形作っている。大蛇がとぐろを巻きつつ、蛇腹を見せながら像の頭の後ろに回って大きく口を開けている。

この左側にも別の大蛇がおり、鎌首をもたげている。そいつの腹に先ほどの穴から出る人間がいる。すなわち「神」は大蛇であり、その大蛇の身体から人間が生まれ出たとでも言っているらしい。

真ん中の青年の右後ろにいるこの二人は何だろう。収穫の手伝いをするわけでもなく、女同士で肩を寄せ合って歩いているだけ。

二人の口の周辺には小さい人間が見える。食事中か。さらに背後にこの二人を呑み込もうとする巨大な爬虫類が見える。人間を巨人族が喰い、それをさらに大きな爬虫類が喰う。この世の摂理を説明しているのか。

全体図。ごく大雑把に見て、画面の中に三匹の巨大な爬虫類型「神」がいる。

普通形を目で追い続けても見えない。こんな生物がいるはずが無いから、心を無にして素直な気持ちでなければ見えて来ない。目を細めて大きく捉える。他の物、木の幹の線・風景の色の変化等を自然に繋いでその形を見る。異次元の生命体らしいから簡単には見えない。特に生まれてこの方テレビや何かに洗脳され続けてきた人には見えない。

また同時にこんな隠しが施されているのが見えて来る。人間家畜の繁殖を促す隠し絵である。山の青い部分の中に人間の男女の性行為している所が表されている。男が上で青、女が下で赤、身体が透けているので重なって見える。男の尻からも女の尻からも子供が産まれ出ているようだ。

下の段にももう一組、性行為中の男女がいる。

また山の中には頭を右に向けた男女交合図も併せて表現されている。

 

我々はどこから来たのか・・・・宇宙からやって来た爬虫類型生命体によって地球上に生まれた。

 

我々は何者か・・・・その爬虫類型生命体が生きるために、地球に元々いた生物と自らの遺伝子を混ぜ合わせて、食糧として創った。

 

我々はどこに行くのか・・・・爬虫類型生命体を人間には「神」と呼ばせ、「神」に従う事(素直に喰われる事)のみを目的とする。